あきらめないこと

 「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』 彼らは出て行った。
 それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。」(マタイ20:1-9)

---

 「1デナリ」というのは、1日を暮らせる分のお金と言われている。
 だから、雇われた人々は正に「日銭を求めて」働いた。

 朝早くに雇われた人々は、その時点で日銭の保証は得られているので、安心だ。
 だが、五時に雇われた人々というのは、日銭を求めて朝から各所をさまよって、それでも職にありつけなかった人々だ。
 三時ごろにもなると、あきらめたくもなるだろう。
 今日あすを、どうやってしのごうか、心配だ。
 腹も減る。
 なげやりになりたくもなる。
 けれども、五時に雇われた人々は、あきらめなかった。なげやりにもならなかった。
 しのいだ。
 それで1デナリの賃金をもらう際に、まず最初にもらったのではなかろうか。
 あきらめなかったことが報われたのだ。

 あきらめなければ、またイエスを信じていれば、次にあるように報われる。

 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)


---
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )