主を愛せよ

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」(マタイ4:1-10)

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 イエスがサタンの誘惑に遭う箇所。
 イエスが仰った3つのお言葉がいずれも申命記からだということは、あっちに置いておこう。

 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」
 人はパンだけでは、生きることができない。
 今日のパンもない人というのが日本も含めた世界中におおぜいいて、その人々にとっては、まずはパンだ。
 ただ、では彼らがパンに満ち足りるとハッピーになるかといったら、残念ながら全くそうではない。次を求め出すからだ。
 その証拠に、大部分の日本人はハッピーだろうか? アメリカ人は?

 イエスがここで仰るには「神の口から出る一つ一つのことば」、これこそが真に満たしてくれるものなのだろう。
 私たちには、それが凝縮されて一冊の書物となった聖書が与えられている。
 この聖書に接すると、世の中の事象(散歩のさなかでもテレビをみながらでも何でもよい)が「聖書の角度」から視ることができるようになる。
 「世の中に、神の口から出る一つ一つのことばがきらきらしている」、とでも言おうか。
 神がこの世をお造りになり、そしてこの世を愛されているのだから、当たり前といえば当たり前だ。

 そして、「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」。
 「主にだけ仕えよ」。
 主人や上司がいてはいけないとか、そんな意味などではない。
 彼らに体は仕えつつ、心はいつも主に仕えている、そういう意味だろう。
 「心がいつも主に仕えている」ということは、説明不要だろうが、似て非なる言葉として、「良心に従う」というのがある。

 もうひとつ、「主を試みてはならない」、これは端的に不信だ。

 そうすると、サタンの誘惑の中でイエスが表明し続けたことというのは、神の口から出る一つ一つのことばをもっぱら大切にし、主を拝み仕え、その主を試みない、つまり、このマタイ福音書の後半で出てくる「主を愛せよ」(マタイ22:37)ということだけだ。
 イエスは、「主を愛せよ」の完徹によってサタンを退けた。

 私たちにイエスのような誘惑がくることは、まずない。
 だがイエスは率先して「主を愛せよ、だけ」という基本姿勢を教えてくれた。
 さあ、姿勢を正して街中に出よう。


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