笛を聴いて踊る

 「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」(マタイ4:23)

 「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」
 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。」(マタイ11:16-23)

---

 バステスマのヨハネやイエスが、福音を携えて、宣べ伝えた。
 だが人々はヨハネをあげつらい、イエスをもあげつらう。
 この人々は「笛を吹いても踊らない」人々だ。

 マタイ福音書でのイエスは人間味にあふれていて、「笛を吹いても踊らない」人々への怒りを発する。
 イエス御自身が福音伝道と数ある奇跡を行われたガリラヤの街々を、責める。
 ガリラヤの街々は、有史以来初めてのものを見聞きした。
 それにもかかわらず「踊らない」。
 カペナウムよりも、あの姦淫の街ソドムのほうが、まだずっとましで、その日にはまだ罪が軽い、という。
 ソドムはイエスを知らなかったが、カペナウムはイエスをよく知っていた。
 その上で、カペナウムは「踊らなかった」。

 イエスを知ったならば、それにつられて「踊る」必要がある。
 というより、自然と「踊る」はずだ。
 イエスを知らないので「踊らない」人々というのは、たくさんいる。
 本人は知っていると思っているから厄介だ。
 そのような人々の中には、飲酒の根拠として上の引用箇所中の19節だけをもってきて、「イエスが大酒飲みと言われているのだから、自分も酒を飲んでよい」とやる(これは何人も知っている)。
 飲酒は全くもって自由だと思うが(天の基準は知らない)、そんな読み方ではイエスを知ることなどできようがない。

 まずはイエスを知ることからだ。
 ガリラヤの人々も、これだけ間近にイエスを見ていて、まるでイエスを知ることがなかった。かえってあげつらう始末だ。
 今のこの時代にも、細々と聖書が遺されている。イエスを知ることは、神のあわれみがあるならかんたんだ。

---
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )