イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
神の完全なる秩序
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)
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最初の人アダムは、「善悪の知識の実」を食べてしまった(創3:6-7)。
「善悪についての判断」なるものを身につけた人間が、ほとんどの場合において悪の側にばかり走ったことは、旧約聖書をざっと斜め読みするだけで一目瞭然だろう。
そんな人間のために、神はモーセを通して数々の律法を授けた。
その支柱とでもいうべきものが、十戒(出エジプト20:1-17)だろう。
この律法を守り行うことは、およそ不可能と思う。
新約の時代に入ると、パリサイ人や律法学者なる「監視者」が、「安息日」について、その「安息日」に労働することまかりならぬ、とどーでもいいことばかりやっている。例えば下記のように。
「そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」(マタイ12:1-2)
彼らは、自分に都合のよい勝手な律法解釈によって、まったくもってどうでもいい事柄をあげつらって人々を責めて支配していたのだろうな、そう想う。
本当の話かどうか知らないのだが、現代のイスラエルという国でも、「安息日に電気のスイッチを入れることは労働だろうか?」、「安息日に冷蔵庫を動かすことは労働だろうか?」とやっている、という話を聞いたことがある(でも、ほんとかな?)
更に「山上の説教」。
「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:17-28)
律法というものは、実にここまで厳格適用されるべきもの、イエスはそう説いてように見える。
「 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)
聖書を小馬鹿にする類の人々は、この箇所を、できるわけねーじゃん、わーっはっは、とやって、そうして聖書そのものを放擲してしまう。
そう、こんなこと、できない。
それも、全く。
情けないほどに。
神の秩序、神の善の基準というのは、そこまでも徹底した厳格にして峻厳、完全なものと思う。
そういうわけで、律法それ自体を守り行うこと、そんなことは、上に見た山上の説教のいくつかを見てきただけでも、もう、およそ実行不可能だと言うことが、痛いほど身に染みる。
実際にパウロは書いている。
「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)
そう、実に人は、罪深い存在にすぎない。
この「罪」というもの、これもまた、ひとことで言い表すことなど不可能かと思う。
聖書というものがこれだけ分厚くて、それを何度読んでも、なお「罪」に気付かない。
何度も何度も読んでいって、そして実生活で揉まれているうちに、理屈を超えて「自らの罪の存在」に気付く、実にそういう類のものではなかろうか。
ところで、ある牧師は言った。
「律法に照らして『罪』に気付いたら、律法そのものは御用済みだ」、と。
冒頭に挙げた聖句とは全く異なる珍説と思う。
「恵み」という概念にばかりとらわれていると、こういう、やはり上に書いたパリサイ人のような勝手な解釈になってしまって、あの単なる「仲良しサークル」に堕してしまうんだな、今はそう思う。
また、この牧師は聖書を読んでいるばかりで、自分の中に大きく横たわる「大罪」に実は全く気付いてすらいないようにも思う(それはさすがに言い過ぎか?)。
他の人の考えを批判するときの常套句が「律法主義」なるものであることもまた、ちょっとどうかと思う。
律法、神の秩序。
「善悪の知識の実」を食してしまった以上、神は「善」というのはこういうもんだ、と、モーゼを介して律法を明文化せざるを得なかった。
イエスは、この律法というものは、守ろうと思っても凡そ守れる類のものではない厳格解釈されるものだ、このことを説いた。
パウロも、「かえって罪の意識が生じる」と述べる。
そして、冒頭の聖句。
律法、その「神の完全なる秩序」それ自体は、天地が滅びようとも不変のもの、イエスはこう説いた。
それを凡そ守ることの全くできない罪深き小人にすぎぬ自分、そのことに思い至る。
だからといって、「やっぱダメだから『恵み』だよねー」とばかりに律法を無視するのもまた、単なる開き直りにすぎないとも思う。
「ただ単に」、「そういう完全なる善の秩序というものは、やはりあるよね」、律法の普遍性というのはそのように捉える類のように思う。
いにしえの昔から日本人が言ってきたことばを引用するならば、「お天道様は見ている」というものの類ではなかろうか。
「だから、『後ろめたいこと』はやっぱりできるだけ止めておこうね、後味も悪いし結局ツケは回ってくるんだし。第一、誰が誉めなくともお父様が見ていてくださるし。」
実行しようと試みず、また無視したりもせず。
今の僕は、律法(十戒)や山上の説教に対して、そのような「距離の取り方」を試みている。「ただ、この完全なる秩序それ自体はある」、と。
そして、この罪深き小人の身代わりになって「自らを処刑」してくださった、それこそ、あのイエスの十字架なのかと思う。
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最初の人アダムは、「善悪の知識の実」を食べてしまった(創3:6-7)。
「善悪についての判断」なるものを身につけた人間が、ほとんどの場合において悪の側にばかり走ったことは、旧約聖書をざっと斜め読みするだけで一目瞭然だろう。
そんな人間のために、神はモーセを通して数々の律法を授けた。
その支柱とでもいうべきものが、十戒(出エジプト20:1-17)だろう。
この律法を守り行うことは、およそ不可能と思う。
新約の時代に入ると、パリサイ人や律法学者なる「監視者」が、「安息日」について、その「安息日」に労働することまかりならぬ、とどーでもいいことばかりやっている。例えば下記のように。
「そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」(マタイ12:1-2)
彼らは、自分に都合のよい勝手な律法解釈によって、まったくもってどうでもいい事柄をあげつらって人々を責めて支配していたのだろうな、そう想う。
本当の話かどうか知らないのだが、現代のイスラエルという国でも、「安息日に電気のスイッチを入れることは労働だろうか?」、「安息日に冷蔵庫を動かすことは労働だろうか?」とやっている、という話を聞いたことがある(でも、ほんとかな?)
更に「山上の説教」。
「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:17-28)
律法というものは、実にここまで厳格適用されるべきもの、イエスはそう説いてように見える。
「 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)
聖書を小馬鹿にする類の人々は、この箇所を、できるわけねーじゃん、わーっはっは、とやって、そうして聖書そのものを放擲してしまう。
そう、こんなこと、できない。
それも、全く。
情けないほどに。
神の秩序、神の善の基準というのは、そこまでも徹底した厳格にして峻厳、完全なものと思う。
そういうわけで、律法それ自体を守り行うこと、そんなことは、上に見た山上の説教のいくつかを見てきただけでも、もう、およそ実行不可能だと言うことが、痛いほど身に染みる。
実際にパウロは書いている。
「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)
そう、実に人は、罪深い存在にすぎない。
この「罪」というもの、これもまた、ひとことで言い表すことなど不可能かと思う。
聖書というものがこれだけ分厚くて、それを何度読んでも、なお「罪」に気付かない。
何度も何度も読んでいって、そして実生活で揉まれているうちに、理屈を超えて「自らの罪の存在」に気付く、実にそういう類のものではなかろうか。
ところで、ある牧師は言った。
「律法に照らして『罪』に気付いたら、律法そのものは御用済みだ」、と。
冒頭に挙げた聖句とは全く異なる珍説と思う。
「恵み」という概念にばかりとらわれていると、こういう、やはり上に書いたパリサイ人のような勝手な解釈になってしまって、あの単なる「仲良しサークル」に堕してしまうんだな、今はそう思う。
また、この牧師は聖書を読んでいるばかりで、自分の中に大きく横たわる「大罪」に実は全く気付いてすらいないようにも思う(それはさすがに言い過ぎか?)。
他の人の考えを批判するときの常套句が「律法主義」なるものであることもまた、ちょっとどうかと思う。
律法、神の秩序。
「善悪の知識の実」を食してしまった以上、神は「善」というのはこういうもんだ、と、モーゼを介して律法を明文化せざるを得なかった。
イエスは、この律法というものは、守ろうと思っても凡そ守れる類のものではない厳格解釈されるものだ、このことを説いた。
パウロも、「かえって罪の意識が生じる」と述べる。
そして、冒頭の聖句。
律法、その「神の完全なる秩序」それ自体は、天地が滅びようとも不変のもの、イエスはこう説いた。
それを凡そ守ることの全くできない罪深き小人にすぎぬ自分、そのことに思い至る。
だからといって、「やっぱダメだから『恵み』だよねー」とばかりに律法を無視するのもまた、単なる開き直りにすぎないとも思う。
「ただ単に」、「そういう完全なる善の秩序というものは、やはりあるよね」、律法の普遍性というのはそのように捉える類のように思う。
いにしえの昔から日本人が言ってきたことばを引用するならば、「お天道様は見ている」というものの類ではなかろうか。
「だから、『後ろめたいこと』はやっぱりできるだけ止めておこうね、後味も悪いし結局ツケは回ってくるんだし。第一、誰が誉めなくともお父様が見ていてくださるし。」
実行しようと試みず、また無視したりもせず。
今の僕は、律法(十戒)や山上の説教に対して、そのような「距離の取り方」を試みている。「ただ、この完全なる秩序それ自体はある」、と。
そして、この罪深き小人の身代わりになって「自らを処刑」してくださった、それこそ、あのイエスの十字架なのかと思う。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
« ほんとうに愛... | ニコデモへの賛辞 » |
少なくとも少しはスムーズになるかなって。
なんだか高度でおもしろい提案ですね。
「自己愛」=「偽善」が同じ事であることがわかるでしょう。
と、おそらく両者は同じ偶像的観念の内側にいることを知るとメッセージされたと思いました。
そして今日のこの言葉に続きます。
やっぱりダメだから「恵み」だよねー
とばかり律法を無視するのもまた単なる開き直りに過ぎない。
「ただ単」に「完全なる善の秩序というものはやはりあるよね」
スティーヴン・W・ホーキング(理論物理学者、ブラックホール研究)
:私は物理学などさっぱりわかりませんが父がそのような研究室とかかわりがあり 小耳に挟んだだけですが。
「宇宙に神を見つける」のような事を語られたようですが壮大な冒険家だと思いました。律法が人間を苦しめるためにあるのでなく、又
罪深く小さな人間が罪に捉われ身動きできないのではなく、
前提として善の秩序を「ただ単にある」ことがまっすぐ既知であるキリスト教国に生まれた人物であるからだと思いました。
やはり わやくちゃな情緒におぼれ 無区別と違いますね。
律法のお話わかりやすかったです。
ありがとうございます。
ただ、これは、一個人の単なる「ほぼ思いつき」にすぎませんので、その点はくれぐれもご留意ください。
実に「律法という完全な世界」(全き聖)にあこがれ、しかし、どうやろうともここに近づきようのない人間、ということを、単にぼんやり思って書かせていただきました。
末筆になりますが、私は「自己愛」=「偽善」とは思っていません。
これも、「2つのタイプの人種がいるよね」、とだけ、書かせていただいたことを付記したく思います。
お返事ありがとうございます。
以前いた職場で定年を迎えようとされていた男性と知り合いになったのですが、(とても親切な方でした)その方との戦争に関しての会話です。
「国家を守る為ならば 俺はなんだってする」
「え~っそうなんですか では飛行機で敵陣に体当たりする特攻隊というのでしょうか それも?」
「ああ もちろん」
「大切に守ってこられた ご家族 例えば息子さんをその特攻にその愛国とやらに信頼して差し出せますか」(普段の会話で どれほど子供たちを愛しているか そして他人も。人の親も同じと言って 高齢者が集まるところに出かけてはマジックショーを。そこにいる人々と喜び合う少年のような笑顔です。
人はその生存本能も含め 自己愛の塊かもしれませんが その少年のような笑顔には偽善の言葉が浮かばない透明感をいつも感じました)
「もちろん それが愛国だ」
「・・・・・・・・・」
わりと揺れのきつい地震が夜中にあった翌日の事。
「ほんと怖かったね~ 飛び起きて家族の部屋に大丈夫か?と声をかけてまわったよ」
「20代の 息子さんのお部屋にも行ったのですか」
「ああ コレコレシカジカ」
「これ 非常に言い辛いのですが 息子さんを特攻に送り出せますか」
「・・・・・・・」
リアリティが昨日の今日だったからでしょうか?
私は 愛国を語っていたあの瞬間のその方は人や社会を思うあまりか 思考だけが一人歩きした偶像崇拝、偽善に・・・とふっと感じました。
2つのタイプのお話 早とちりして失礼いたしました。
その前にコメントさせていただいた へんてこな
散文も 上記の職場での話と同じような違った表現です。
Leviさんが 仰りたい事とは違うようですから 取り消しまして 散文と上記の話を私の感想とだけにして 修正させて頂ければと思います。
縄跳び最近私もしてみましたが 身体が子供のときのように軽くなく どうなってんの~と思いました。
季節の変わり目 風邪が流行って来たようです。
治ったらまた 縄跳び。
万有引力に逆らい 心は軽く 縄跳びしながら去っていくのであった。
では^^/また 今後ともよろしくお願い致します。
特に感情を害したということは、まったくありませんでしたので、お気遣いなく。
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