取税人のように扱え

 「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(マタイ18:15-17)

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 罪人に、その罪を責め立てよ。
 彼が聞き入れないならば、ひとりふたり連れてきてなお責め立てよ。
 それでも聞き入れないならば、教会に告げよ。
 その教会の言うことさえ聞き入れないならば、「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」。

 かくして罪人は村八分される。
 嫌悪され、無視され続ける。
 この罪人はその最果てに、自らの罪をまじまじと見つめることとなる。
 だから、イエスの仰った「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」というのには、とても大きな神の愛を感じる。
 人は、この類の追いつめられ方(しかも神が追いつめるのであり自分では選択できない)でしか、罪( sin )に触れることはできないのだから。

 この道を切り開いた人が、イエスだ。
 イエスの十字架への道、人々から忌み嫌われ、つばきをかけられる。
 最高刑・十字架に死んで、そして復活する。
 罪( sin )への気付きと回心への唯一の道、そのひな形がこの十字架の道だ。


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