信仰は聞くことから始まる

 「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。
 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:15-17)

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 もう随分前のことだが、教会にいた頃の私はトラクト配りを2回やった。
 各戸のポストにビラを投げ込む、ただそれだけのことだが、私の足は少しは立派になっただろうか。最近は冷え性に悩まされている。
 そのように、イエス・キリストや教会そのものを知ること自体は、イエスを通した御父との和解に至るためのきっかけになる。
 ここで、上の聖句「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」は、上に書いた両方共にあてはまる。
 というのは、聖書の文字というのは、いつもは他の書物の文字となんら変わることがないが、「ことばは神」(ヨハネ1:1)というほかない時が来て、みことばを文字面とは違う神のことばとして聞いて御父と和解するからである。
 トラクト配りというのを今もやっているのかどうか、今の私には分からないが、何らかのやり方で十字架と復活による魂の救いが伝え続けられればと思う。

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 イエス様の平安がありますように!

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