あわれんでくださる神の主権

 「 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。
 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。」(ローマ9:13-18)

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 「パロ」とは、エジプトの王・ファラオ。
 イスラエル民族を脱出させたいモーセによってエジプトに数々の災難が起こっても、イスラエル民族の脱出を許可しなかった、このことを「かたくな」(頑固)と言っている。

 このように、全ては自分が運行するのではなく、神のみこころによる。
 王がかたくなになるのも。
 愛されるかとか憎まれるかとか。
 「事は人間の願いや努力によるのではな」い。
 「あわれんでくださる神による」。
 だから人間は、どこまでも受け身の存在にすぎない。
 あわれみを祈り求めるだけの、受け身の存在だ。

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