キリストにはかえられません

 「キリストにはかえられません
 世の宝も また 富も
 このお方が私に代わって死んだゆえです

 ※世の楽しみよ 去れ
  世の誉れよ 行け
  キリストにはかえられません
  世の何物も

 キリストにはかえられません
 有名な人になることも
 人の褒める言葉も
 この心を惹きません

 (※繰り返し)

 キリストにはかえられません
 如何に美しい物も
 このお方で心の満たされて在る今は

 (※繰り返し)」
           (聖歌521番)

---

 死んで生きる、ということはキリストがなさせてくださる。
 この道を切り開いたのが、イエスの十字架の死と復活だからだ。
 「このお方が私に代わって死んだ」、そういう道だ。
 「私」の死は、擬似的な死で済むのだから。
(ただ、擬似的であれ、死の苦しみあっての死には違いない。)

 上の聖歌には、様々な事物が列挙されている。
 世の宝、富、世の楽しみ、世の誉れ。
 有名人、褒め言葉。
 美しい物。

 いや、ほめられたらうれしいし、美術をたしなんでもいいじゃないか。
 全く楽しみを拒絶するというのは、ストイックを越えて端的に変人だ。
 歌詞なので水増しせざるを得なかったのだろうと思うのだが、この歌詞はいいところを突いている。

 「世の宝、富」、すなわちマモニズムの奴隷。
 ここから死んで、生きるのだから。
(マモニズムという名称は、「マモン」(富)というアラム語に由来する。)
 これは、お金なんかまったくいらない、ということではない。
 生活してゆけるだけのお金が必要なのは、いうまでもない。
(だから働くことそれ自体は、とても大切なことだと思う。)
 マモニズムとは、例えば、転職して年収大幅アップだとかいうのがほんの一例だろう。
 生活するという目的のためにお金を神から頂いているはずなのに、お金を儲けることが目的になってその手段として生活する、こういう主客転倒に陥る。
 「お金がすべて」、「ゼニあってなんぼ」。
 この世界からは、死ぬ。

 そして、「このお方で心の満たされて在る今は」という世界に、生きる。
 何も、絶えずキリストキリストと思っているというのではない。
 それは「無意識」に埋め込まれた。
 そのことが、外界に左右されない確かな充足の基となる。
 だから、キリストが何物にも代えることができないのである。

---
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )