自分の十字架

 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:24-26)

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 上の訳は、新改訳第二版。新共同訳とどちらを引用しようか迷ったことを前置きしつつ。

 「自分を捨て」ることの正反対は、自分を守ること。
 自分にしがみつく。
 自分を守ることで汲々としてしまうと、どんどん不自由になってゆき、しまいには(いのちを得ようと思っているのに)それを損じてしまう。

 だから、「自分」は脇に置いておき、自身に課せられた十字架を負ってゆく。
 そうやっていっていのちをささげると、ほんもののいのちを得る。

 内村鑑三の何かの本に書いてあったことだが、チンギスハンが諸国の王を宮殿に集めて自分の前にひざまずかせてみても、チンギスハンは側近に虚しさを訴えただけだったという。
 豊臣秀吉は日本を統一し朝鮮まで攻め入っても、死の間際に歌ったことは、そういったことのはかなさだったという。
(さきほども本をめくって調べたのだが、未だにどの本に書いてあったのか分からない。)
 もっぱら自分の欲望だけ満たそうとしてしまうと、「人はいったい何を差し出せばよいでしょう」というほど取り返しの付かない喪失、虚無、つまり、本当の意味での「死」を迎えてしまう。

 ひとりひとり、イエスから与えられた十字架は異なる。
 それを背負っていれば、おのずと自分は脇へ引く。
 自分のやりたいことというのは、イエスが与えて下さった十字架とは全く異なるもので、それをやろうとすることこそ、自分を守ることだ。

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