聖霊と火とのバプテスマ

 「しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
  『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。
 あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ3:7-11)

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 ここにいうヨハネはバステスマのヨハネで、ヨハネ福音書等を書いた人とは別人物。

 「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになる」というのは、その通りだろう。
 「石ころ」というのは、本来的にどうでもいいやつ。
 「聖霊と火とのバプテスマ」が、この石ころをもアブラハムの子孫とする。
 水のバステスマは、その型にすぎないことは、ヨハネ自身が言っている。「聖霊と火とのバプテスマ」の型だ。
 アブラハムの子孫と称する連中であっても、悔い改めるならば、名実共にそうであるように、見捨てられた石ころのような存在であっても、悔い改めるならばアブラハムの子孫すなわち神の子となる。
 ヨハネはそのことを示すためにこの世に来られた。

 その悔い改めへと導くのが、「聖霊と火とのバプテスマ」である。
 自分が「悔い改める」のではない。それでは「自分」が万能ということになってしまう。
 ことこのことに関して、人間はどこまでも受動的だ。
 神の御業だからだ。
 「待つ」のみである。
 ただ、「聖霊と火とのバプテスマ」とはどういうものか、即ち、イエスはどのような救いの道を切り開かれたかということは、どの福音書にもきちんと書かれている。
(なお、1コリント13:8参照。)

 特にイエスは御自身、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と仰っている。
 石ころのような存在でもイエスを通れば救われる、このことを福音というのではなかろうか。
 「聖霊と火とのバプテスマ」だけが、この道をその人に切り開く。

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