イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
聖書の目的
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」(1コリント15:3-5)
---
上にいう「聖書」というのは、旧約部分のみだと思う。
だが、こうして新約聖書にはっきりと記された。
何がというと、キリストの十字架の死とよみがえりこそが「最も大切なこと」だということがだ。
「私たちの罪のために死なれた」ということをすんなり飲み込む(受け入れる)ことができるならば、その人はキリストの弟子といってまったく差し支えない。
そうでないなら、私たちすべての人に与えられたこの聖書を、ひたすら読み続けよう。
「一日三章」と言われたら、一日五章は読もう。
「明日はマタイ9章を読め」と言われたら、それは3度繰り返して読もう。
「1年で通読しろ」と言われたら、半年で。
いつ、どこで、聖書のどこかのみ言葉が「引っかかる」かは、誰にも分からないのだ。
引っかかりさえすれば、「最も大切なこと」を鮮やかに了解できるだろう。
それは、とりもなおさず「救われた」ということだ。だから、その人をキリストの弟子と呼んで、なんら差し支えない。
だから、聖書を読み続けること、開き続けることは、とても大切なことだ。
神は聖書の中でしか、語らない。というより、そのための聖書だろう。
知恵を付けるために、あるいは道徳訓を得るために聖書を読むのだとしたら、それは虚しい行為だと私は思う。
語るためだとしたら、それは気の毒なほどだ。
聖書はもっぱら、聖書を読むために読むものだと、私は思う。
読み続けていって「引っかか」ったらしめたもの、今まで訳が分からずに読んでいたものが、厚いベールが突如として取れたかのように分かってくる。
すると「最も大切なこと」を鮮やかに了解でき、「いのち」に与る。
まずは聖書だ。
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キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」(1コリント15:3-5)
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上にいう「聖書」というのは、旧約部分のみだと思う。
だが、こうして新約聖書にはっきりと記された。
何がというと、キリストの十字架の死とよみがえりこそが「最も大切なこと」だということがだ。
「私たちの罪のために死なれた」ということをすんなり飲み込む(受け入れる)ことができるならば、その人はキリストの弟子といってまったく差し支えない。
そうでないなら、私たちすべての人に与えられたこの聖書を、ひたすら読み続けよう。
「一日三章」と言われたら、一日五章は読もう。
「明日はマタイ9章を読め」と言われたら、それは3度繰り返して読もう。
「1年で通読しろ」と言われたら、半年で。
いつ、どこで、聖書のどこかのみ言葉が「引っかかる」かは、誰にも分からないのだ。
引っかかりさえすれば、「最も大切なこと」を鮮やかに了解できるだろう。
それは、とりもなおさず「救われた」ということだ。だから、その人をキリストの弟子と呼んで、なんら差し支えない。
だから、聖書を読み続けること、開き続けることは、とても大切なことだ。
神は聖書の中でしか、語らない。というより、そのための聖書だろう。
知恵を付けるために、あるいは道徳訓を得るために聖書を読むのだとしたら、それは虚しい行為だと私は思う。
語るためだとしたら、それは気の毒なほどだ。
聖書はもっぱら、聖書を読むために読むものだと、私は思う。
読み続けていって「引っかか」ったらしめたもの、今まで訳が分からずに読んでいたものが、厚いベールが突如として取れたかのように分かってくる。
すると「最も大切なこと」を鮮やかに了解でき、「いのち」に与る。
まずは聖書だ。
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