イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
肉を持ったイエス
「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。
イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。
教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
またさらに、
「わたしは彼に信頼する。」
またさらに、
「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」
と言われます。
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:0-15)
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「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました」とあるとおり、人間の血肉をお持ちになってイエスは来られた。
続いて、「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼ」すため、とある。
イエスの十字架での死こそが、自身を支配している悪魔からの解放をもたらしたからだ。
(私は「悪魔」という言葉(概念)を「死という力」、「闇という力」というニュアンスで捉えている。)
その際、イエスは正に「死の苦しみ」を味わったが、死んだ三日後に復活する。
それは、「多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者(註:イエス)を、多くの苦しみを通して全う」させた神のご計画のためであった。
イエスが十字架で死んだのは、「多くの人たち」を救うためだ。
その人間も肉がある以上、その際には正に「死の苦しみ」を味わう。
だが、それこそイエスが切り開いた救いの道なのだ。
イエスに肉がなかったならば、こういうことはあり得なかった。
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イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。
教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
またさらに、
「わたしは彼に信頼する。」
またさらに、
「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」
と言われます。
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:0-15)
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「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました」とあるとおり、人間の血肉をお持ちになってイエスは来られた。
続いて、「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼ」すため、とある。
イエスの十字架での死こそが、自身を支配している悪魔からの解放をもたらしたからだ。
(私は「悪魔」という言葉(概念)を「死という力」、「闇という力」というニュアンスで捉えている。)
その際、イエスは正に「死の苦しみ」を味わったが、死んだ三日後に復活する。
それは、「多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者(註:イエス)を、多くの苦しみを通して全う」させた神のご計画のためであった。
イエスが十字架で死んだのは、「多くの人たち」を救うためだ。
その人間も肉がある以上、その際には正に「死の苦しみ」を味わう。
だが、それこそイエスが切り開いた救いの道なのだ。
イエスに肉がなかったならば、こういうことはあり得なかった。
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