試み

 「だから、こう祈りなさい。
  『天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
  御国が来ますように。
  みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
  私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
  私たちの負いめをお赦しください。
  私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
  私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』」(マタイ6:9-13)

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 主の祈り。

 「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」。
 私は長い間、この箇所の「試み」について、悪いこと(バッドなこと)が起きないように、そう祈っているのだと思っていた。

 ところで主の祈りは、神にささげる祈りだ。
(もっとも祈りはすべて神のみにささげるものだ。)
 「御名があがめられますように。」
 「御国が来ますように。」
 「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」
 御名、御国、みこころ。

 そうすると、「試み」というのはこれら「御名、御国、みこころ」といったもの、すなわち神から離反してしまうような出来事、情動や誘惑の類を言うのではないだろうか。
 「悪からお救い下さい」というのは、バッドなことが起きないように、というのではなく、誘惑からお救い下さい、ということだろう。
 「悪」というのは神の価値観によって測られるのに対し、「バッド」は自分の都合だ。
 3億円の宝くじが当たったとしたら、それはハッピーかも知れないが、間違いなく「悪」であり、その人は試みに遭っている。

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