いつも喜んでいなさい?

 「いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケ5:16-18)

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 いつも喜ぶ? そんなことがありうるのだろうか?!
 パウロは一方で、全く別のところで「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、」(2コリント6:10)と記している。
 私は悲しみというのは喜びのうちに入らないと思う。

 寧ろ、悲しみや怒りはもちろん、喜びというのも特に感じずに淡々と何か作業に向かっているという方が、無感情に見えてかえって「いつも喜んでいなさい」に近いだろう。実際、喜びという類の情動がなければ作業をし続けることはなかなか難しい。
(ここでいう「作業」というのは、食器洗いとか掃除でもいい。)
 非言語的な「いつも喜んでいなさい」こそ喜んでおり、「私はいつも喜んでいよう」と言葉で前面に出してしまうと、もうそこから遠ざかってしまう。

 そして、悲しみや怒りという感情は、表出させてしまうとかえってその感情が大きくなってしまう。
 だから、できるだけ「喜んで」いるふりをしてやりすごす。
 そうこうしていると、さっと潮が引くように悲しみや怒りが消失してゆく。
 これは確かに、喜びといっていい。

 祈りや「感謝」についても、同じことが言えると思う。
 「祈り」を考え朝から晩までぶつぶつ想起するのは、人の営みとしてきわめて不自然だ。
(無益とまでは言わないが。)
 「祈り」ということばが頭の中になくとも、夕食時、ああ今日いちにち無事に守られたなあ、というのが、絶えず祈ったその結果ではなかろうか。
 「感謝」というのも、全く同様だ。
 人から何か(物や時間、こころづくし等)を頂いたから感謝だとかいうのは、単なる御利益でしかなく、それら単体はイエスとは無関係だ。
 朝起きて活動を始めるとき、今日いちにちを全うできる保証というのは、実は全くもって何一つないのだ。
 だから日が沈む頃には、言われずとも感謝はつきない。
 実は朝から、一日の始まりを感謝していたのだ。
 言葉で想起しなかっただけで。

 喜びとか祈り、感謝というのは、言葉にして意識すると、途端にそこから崩れてしまうものだ。

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