望み

 「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。」(ローマ8:18-24)

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 「被造物」とは、人間も含めた全自然というよりも、端的に人間に限定してしまおう。
 「被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方による」とあるるが、「服従させた方」とはもちろん神。
 すると、「虚無に服」する被造物とは、善悪の木の実を食したアダム、その子孫としての人間だ。
 アダムの子孫ゆえ、虚無に服している。
 その虚無ゆえ、「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」。
 この産みの苦しみをしているのは、「私たちに啓示されようとしている栄光」と書かれているところの「私たち」も同様だ。
 ただ、「栄光」(望みでも光でも、ことばは何でもいい)を待っているので、苦しくてもそれは「取るに足りないもの」と考えることができる。

 では「栄光」とは、なんだろうか。
 「心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
 からだの贖い、(神の)子にしていただくことだ。
 ここにいう「からだ」は "body" であり、「肉」( "human being" )ではない。
 文字通り、この肢体だ。
 この肢体が贖われることだ。神の子になることだ。
 だから生きていてこの状態になることは、ない。
 「産みの苦しみ」を、私たちはし続ける。
 しかしこの状態(「栄光」)になることを、「待ち望んでいます」。
 「私たちは、この望みによって救われているのです」。

 「被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです」、虚無に服しているこの被造物の望みは、だから「私たち」の望みと何ら変わらない。
 つまり、普遍的な希求なのだろう。
 ただ、虚無に服し続けているか、そこから脱出できたかが違うだけだ。
(ここに言う「虚無」は、世間で言うそれよりもかなり広範な概念だと思う。)
 いいかえると、「栄光」にだけ望みを絞ることができるかどうかの違いだと思う。

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