改革

 「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
 さらに、家族の者がその人の敵となります。
 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-39)

---

 イエスが弟子たちを派遣する際の説教から。

 イエスは「平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来」られた。
 改革だ。
 大改革だ。
 「郵便局」が「郵便事業株式会社」に変わるような、そんな「改革」などではない。
 アダムの肉以来続く人々を改革して、その肉を赦し「いのち」を与える。
 このことのために今、イエスは弟子たちを派遣しようとしている。
 改革だから、「平和」ではなく「剣」なのだ。
 
 「いのち」を頂いた者は、「剣」によって自分のいのちを一度失っている。
 そうして新たに、「いのち」を与えられた。
 彼は、それを得ない世の者との摩擦を余儀なくされる。
 彼は変わってしまったのだ。何も変わっていないのだが。

 もはや彼の方向性は世にあるのではなく、救ってくださったイエスの方にある。
 それで彼は自らの十字架を負って、この「いのち」を与えてくださったイエスに日々付き従う。
 自らの十字架、それはこの世にあって為すべき任務、課題、やること、そういった類ではなかろうかと思う。
(それを「イエスの弟子」というところまで結びつけて良いのかは、まだよくわからない。)

---
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )