油注がれると

 「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。」(1サムエル16:13)

 「指揮者のために。八弦の立琴に合わせて。ダビデの賛歌
 主よ。御怒りで私を責めないでください。
 激しい憤りで私を懲らしめないでください。
 主よ。私をあわれんでください。
 私は衰えております。
 主よ。私をいやしてください。
 私の骨は恐れおののいています。
 私のたましいはただ、恐れおののいています。
 主よ。いつまでですか。あなたは。」(詩6:1-3)

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 今日は二箇所から。
 最初は、少年ダビデがサムエルによって油注がれた箇所。
 旧約にいう「油注がれた」というのが新約にはどのような概念に対応するのか(または対応する概念はないのか)、私には分からない。
 ともかくダビデは、幼くして油注がれた。

 次に詩篇第6篇。
 「あわれんでください」、「衰えております」、「いやしてください」、「恐れおののいています」、「いつまでですか」……。
 油注がれた者というと、順風万般とか天下太平とか、あるいは力強い、恐い者なしといったイメージがある。
 しかし、油注がれたダビデは、そういうイメージとは全く逆のことを詠っている。

 さて、話を新約に戻そう。
 「いのち」でも「救い」でも「回心」でも、言葉は何でもいいと思うが、そういうことがあったからといって、あとは順風万般、悩み知らず、全てうまくいくということでは凡そないことは、上のダビデのことから明らかだと思う。
 苦しみのない人生というのは、ない。
 ただ、「いのち」(このことばに代表させよう)があると、なんというか、たくましくなると思う。
 根は変わらないのだが(あたりまえだ。急に品行方正になどなるものか)、脈々と力強い何かが流れているような、と言えばいいだろうか。
 イエスはこれを、いのちのパン(ヨハネ6:48)、生ける水の川(ヨハネ7:38)と例えている。
 そういうものをイエスから頂いても、悩み苦しむことは相変わらずだ。
 そして、相も変わらず、いや、今まで以上に、 「あわれんでください」、「衰えております」、「いやしてください」、「恐れおののいています」、「いつまでですか」と、もっぱらイエスに愚痴るのである。

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