人を許す

 「だから、こう祈りなさい。
 『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
 私たちの負いめをお赦しください。
 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
 〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:9-15)

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 前半は、いわゆる「主の祈り」。
 イエスから授けられたこの祈りは、こうして改めてみると、必要十分な祈りのように思える。
 言い換えると、これ以上のことばは余計であり、これより少ないと足りない、そのような祈り。

 この祈りの前半部は、「御国が来ますように」に集約される。
 残る後半部のうち二行を、「人を許す」ということに費やしている。
 この「人を許す」ということについては、イエス御自身の注釈まで付くという念の入れようだ。

 人を許すということは、一般にとてもむずかしい。
 人を許さないままでいると、自分が苦しくなってしまう。
 しかし、もしその人と和解するならば、その苦しさからあっという間に解き放たれる。
 お父様が創ったこの世界の理(ことわり)なのであろう。
 ところが人には要らぬプライドがあるので、人を許すことはむずかしい。
 そういうことで、「人を許す」ということについて、必要十分であるところの「主の祈り」の中で祈り求めよ、ということなのだと思う。

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