あなたは、わたしに従いなさい。

 「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。
 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:18-22)

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 イエスはペテロが意に沿わぬ、しかし神の栄光を顕すような死に方をすることを告げる。
 そのペテロは、「主よ。この人はどうですか」と、イエスに尋ねる。
 「それがあなたに何のかかわりがありますか」、というのが、イエスの答だ。
 そして、繰り返し、告げる。「あなたは、わたしに従いなさい」。

 おそらく、どの人にも「私に従いなさい」という見えない命令が告げられていると思う。
 ただ、見えないから、どのような命令なのかは分からない。
 職種に例えると、コックさん、エンジニア、記者、医者、弁護士、……。
 なりたくてなった職というのは、命令されて就いている職とは全く違う。
 その職に使命を感じていても、命令とはまるで無関係だ。

 それと同じで、「あなたは、わたしに従いなさい」というイエスの命令自体は明らかであっても、では何をせよ(何を行え)というのは、自分の現状や希望とは無関係で、しかもよくわからない。

 私がどういう死に方をするか、それにあたってどのようなことをしているのか、そのようなことを私は、全く聞かされていない。
 だが、「あなたは、わたしに従いなさい」。
 さしあたり、今日のことを今日たんたんとやることのみに、徹している。
 これだって、コックたれと命令されているのにもかかわらず記者をやっているようなものかも知れない。

 ただ確かなことは、生きていないと(または、生を全うしないと)命令を果たせない、ということだ。
 なので、生の全うだけを考えている。
 そのために、今日のことを今日たんたんと、やっている。


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