購入一年

 まずほんじつ9月2日は、昨年の今日(9月2日)に本ブログにて書いたことを、そのままの形で引用する。
(引用はじめ)

 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

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 私はカネを求めていたかのようで、実はそうではなかった。
 人からの栄誉を求めていたかのようで、実はそうではなかった。
 ほんとうに求めていたもの、それが実に、聖書の中にあった。
 「 わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)
 まさしくイエス御自身こそが、いのちのパン、わき出る泉(ヨハネ4:14)、また永遠のいのち(ヨハネ6:27)そのものであったとは!

 今の私は、特に何かを失ったわけでもない。
 明日も、今まで通り、ごく普通に売り買いするだろう。今まで通りに、怒り、泣き、笑うだろう。ストレスも、依然として大きいだろう。
 人としての営みには、さほどの変化があるとは思えない。
 けれどもなんといっても、イエス、この宝を手にした満足感の大きさといったらない。
(引用終わり)

 宝が隠された畑。
 これさえあるなら、ほかはなんにもいらない。そういうもの。
 全財産を処分しこの畑を購入して、1年(とちょっと)が経つのかと思うと、万感の思いだ。
 それまでは、この畑がどこにあるのかすら、検討がつかなかった。
 ところがよくしたもので、最後の最後に、その畑を見いだす目を神は与えてくださった。
 「その畑」は、なんのことはない、ほんのすぐそこにあったのだ。

 以来1年間、この聖書ブログは、おおかた毎日続いている。
 そして、申し訳ない気もするのだが、内容は金太郎飴だ。
 1年間、金太郎飴。
 私が書きたいことというのは、「いのち」ということ。
 そのために、「律法」、「罪」、「十字架」等の外堀を綴っている。
(「十字架」は、「いのち」のための、「復活」と対をなす「外堀」だ。)
 この1年間で捉え方に訂正や修正を施したことは、ほとんどなかったと思う。

 このブログが変わっていない、ということは、畑を手にした満足感が変わっていないということだ。それも、全く変わっていない。
 ではこの1年間、天下太平だったのかというと、逆で、苦難続きだ。
 全てを売っぱらったのだ、無論、不自由は大きい。
 神にすがる以外には、何もない。繰り返すが、苦難続きだ。
 第一、当の神が、不必要なものを容赦なくばっさばさと切り捨ててしまわれる。
 それでも、畑の中の宝を手にした喜びの方が、ずっと大きい。
 宝、それを「いのち」と呼んでいる。
 それについて、去年の9月2日、新鮮な気分で書き表した。
 今日、記念の意味合いも込めて、再登場させてみた。

 ちなみに、「人としての営み」は、やはり変わってきていると思う。
 当たり前だ、こんな宝を手にしたのだ。


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