学問

 「しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。
 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。
 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。
 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」(ヨハネ7:14-18)

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 彼らはイエスの教えを「学問」と捉えた。
 その「学問」とは「正規に学」ぶ必要があるらしい。なんとか大学卒業とか、誰それの門下生であるとか、そういう資格の類が必要であるかのようだ。
 ただ、彼らは驚いた。「どうして学問があるのか」。
 自分たちの履修した「学問」と同じ内容だったからだろう。

 イエスは、父から知らされたことを仰っているにすぎない。
 いってみれば、イエス御自身にとっては自明のことを教えていたのだろう。
 イエスがたくさんの律法をご存じなのも(例えばヨハネ8:17)、「学問」をしたからでは、全くない。
 ただ上からの知恵によっている。下の知識ではない。
 下の知識というのは人間的努力によって身につけたものだから、誇ってしまうのだ。
 その点、上からの知識は、単に有り難く頂戴できる。
 そのことを指して、「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません」と仰ったのだろう。

 「いのち」や救い(同義語だと思っている)といったものに対しては、下の知識は、ほぼ何の役にも立たない。
 そればかりか、かえって狭隘な地点での知的好奇心を刺激するばかりで、「いのち」から遠ざけてしまうのではなかろうか。

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