運ぶ通りがかり

 「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。
 イエスは彼らの心の思いを知って言われた。
 「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
  『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
 すると、彼は起きて家に帰った。」(マタイ9:1-7)

---

 福音書には、イエスによって病が癒されたり悪霊を追い出していただいたりした人々が、たくさん登場する。
 しかし、「あなたの罪は赦された」と宣告された人は、この中風の人だけだ。
 この中風の人を運んできた人々、「彼らの信仰を見て」イエスは中風の人に無罪を告げた。運んできた人々には、何も仰っていない。
 では、中風の人は素晴らしい友人達を持っていたからこうなったのであろうか。
 そうであるなら、それは友愛であって信仰でも何でもない。
 むしろ中風の男にとって、この人々は単なる通りがかりで、それにもかかわらず彼らは(治ると信じて)イエスの御許に中風の男を運んだのではないだろうか。
 イエスは「彼らの信仰を見て」、病気の癒しなどという小さいこと、たやすいことではなく、中風の男に罪の赦しという大きいこと、難しいことを宣告した。

 罪の赦しがどれだけ難しいか。
 なにしろイエスがそれを為すために、十字架へと架かる道を歩んでいる。
 イエスが十字架に架かり復活した。
 この十字架だけが罪の赦し、神との和解を与えてくれる。
 通りがかりの人が、そこに運んでくれるのだ。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )