悪魔について

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」(マタイ4:1-11)

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 かつて私は、教会の教会学校で、子ども相手にこの箇所の説教をした。
 ファイル名が「2003/01/12……」となっているので、その寒い日の朝、私は説教壇上で子どもたちを前に原稿を読み上げていたのだろう。
 その記憶は全くない。
 が、記録はこうして残っており、何を話したか、先ほどそのファイルに目を通した。
 その中で、悪魔の誘惑から身を守るために聖書に親しみましょう、というようなことを、私は臆面もなく書いていた。
 読み終えて思ったことは、悪魔とはいったい何なのだろうか、ということだ。
 凶事を引き起こす人?(生き物? 霊?)、それが「悪魔」なのであろうか。
 「悪」と「魔」なのだから、まあ避けたい存在なのだろうけど…。

 この世の栄華をすべて見せた上で「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言う悪魔。
 「いい提案じゃないか。こいつに拝むだけで、全ては自分のものだなんて、こいつ、いいやつじゃないか。」
 聖書のこの箇所を読んでそう思う人が、しかも心からそう思う人が少なからずいるに違いない。
 第一、タダだ。
 悪魔というのは、「いいやつ」なのだ。
 そういう価値観を持つ人々にとっては。

 だが、タダでこの世の栄華が全て自分のものになってしまうと、その人は、しばらくはその全ての事物を楽しんでも、忍び寄るデカダンの影にやがて覆い尽くされてしまうことだろう。
 退屈、全般的なつまらなさ(アンニュイと言えば聞こえはいいが)、そして全き虚無、そういった暗黒の地点に飲み込まれてしまう。
 このとき、悪魔はほくそ笑む。
 だから、全てを手に入れた者は、全てを失った者だと、私は思う。

 悪魔の試みの残り2つは、「あなたが神の子なら」という「前提」がついている。
 石をパンに変えろ。
 助かるから、ここから飛び降りろ。

 ところでイエスは、数々の奇跡を実際に起こされた。
 有り余るパンを人々に配給し、夜の湖上をひたひたと歩いた。
 だから、その気になれば、石をパンに変え、飛び降りて助かるというのはできただろう。
 だが、やらない。

 自分の空腹のためにそこの石をパンに変えてしまうと、「神の子」は自分のためだけに自分の力を使ったことになって、「堕ちた存在」になってしまう。
 「自分を助ける神」、悪魔はイエスをこういう存在に貶めたい。
 飛び降りることも、同様だ。
 つまり、悪魔は「神の子・イエス」を、貶めたくて誘惑を仕掛けている。

 イエスは、この悪魔の試みを受け、公生涯を送られ、十字架の上で死に、復活する。
 このイエスが来られたのは、私たちに「いのち」を与えたいからだ。
 一方悪魔が与えたいのは、上に挙げた全き虚無状態にからめとられた「死の状態」だ。
 だから両者は利害が真っ向から対立する。
 それでおのずと、敵味方になる。
 イエスをあれほど貶めたいのも、端的に、真っ向から利害が対立する敵だからだ。
 だから、悪魔とは神に真っ向から対立する存在、概念である。
 凶事を運んでくる存在というのとは、だから少し違う。
(また、立場にもよるはずだ。)

 では人間という存在はというと、人間が神の方向と同じ方向を向いていないことからして、逆に言えば、人間には悪魔の側を少なからず向いているところがある。
 その「向き」の部分を「悪魔」と呼んで忌み嫌うのは、分かる。
 だが、凶事の発生を悪魔の仕業にしてしまうと、悪魔のほんとうの恐さが分からなくなる。また、神の与え給う試練との区別もつかないだろう。
 不思議なことに、前者は一般社会に多く見られ、後者は教会で頻用される。


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