弱音を誰に吐くか

 「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。
 主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
 悪を行なう者が私の肉を食らおうと、
 私に襲いかかったとき、
 私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。
 たとい、私に向かって陣営が張られても、
 私の心は恐れない。
 たとい、戦いが私に向かって起こっても、
 それにも、私は動じない。
……
 聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。
 私をあわれみ、私に答えてください。
 あなたに代わって、私の心は申します。
 「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。
 主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。
 どうか、御顔を私に隠さないでください。
 あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。
 あなたは私の助けです。
 私を見放さないでください。
 見捨てないでください。
 私の救いの神。
……
 ああ、私に、
 生ける者の地で主のいつくしみを見ることが
 信じられなかったなら。――
 待ち望め。主を。
 雄々しくあれ。心を強くせよ。
 待ち望め。主を。」(詩27:1-3,7-9,13-14)

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 「たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない」とは、まあ、なんと傲慢不遜な人間なのだろう。
 強がりというか。

 その詩人は、当然のように神を見失う。そして言う。
 「あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と」。
 さらに詩人は、弱音まで吐く。
 「私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神」。

 ただ、弱音を吐いた相手が神だったのが良かった。
 彼は己を取り戻し、主に頼ることを改めて覚える。
 「ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。―― 待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を」。
 未だ困難の中にいるのだが、上のような弱音はもう影を潜め、詩人の心は確信に満ちている。
 強がりも、まったく見られない。

 弱音を吐く相手が人だったら、彼はどうなっていただろうか。
 ほんとうに信頼できるのは、ひとにぎり、いや、ひとり(おひとかた)だと思う。
 この方が、上の詩人を導いたようにわたしたちを導いて下さる。

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