悪との共存?

 「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
 ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:21-25)

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 「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っている」。
 自分の内側には、隠しようも誤魔化しようもなく、悪が宿っている。
 この悪を、取り去りたい。
 しかし、どうあがいても、悪を取り除くことができない。
 取り除いても取り除いてもなお、悪が見つかるのだ。

 「私は、ほんとうにみじめな人間です。……、ただ神に感謝します」。
 彼は急変したのだ。
 何故だろう?
 ともかくここで、様変わりする。
 そして彼は言う。
 「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」。

 肉を持つこの自分は、「罪の律法」すなわち悪が宿っていることをよしと認めている。
 悪があるのは肉があるからで、肉がある以上悪は消えない。
 悪を取り除くのではなく悪と共存できて、そうして神に感謝できた。
 自分の中に悪があっていい。
 悪の側面を内に持つ自分を認めて、一息つく。
 そのことが分かっていれば、悪事という形で表出することをコントロールできる。
 もう少し広範な概念、また世俗的な物言いをすると、等身大の自分との和解というところだろうか。

 「共存」できたのは、彼自身の力づくによってではない。
 神が御恵みの風をお送り下さったからで、人間は、ことこの事に関しては、どこまでも受け手だ。
 ただ、ふと「風」に触れると、上のように様変わりする。

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