たましい

 「――たましいの贖いしろは、高価であり、
 永久にあきらめなくてはならない。――
 人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。
 墓を見ないであろうか。

 彼は見る。知恵のある者たちが死に、
 愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、
 自分の財産を他人に残すのを。
 ……

 彼らは羊のようによみに定められ、
 死が彼らの羊飼いとなる。
 朝は、直ぐな者が彼らを支配する。
 彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。
 しかし神は私のたましいを
 よみの手から買い戻される。
 神が私を受け入れてくださるからだ。セラ

 恐れるな。人が富を得ても、
 その人の家の栄誉が増し加わっても。
 人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、
 その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。」(詩49:8-10,14-16)

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 詩人は当初、「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」と言っている。
 これは、たましいは自分の手でつかみ取らねば、そういう発想だ。
 彼は言う。
 知恵ある者も愚か者もまぬけ者も、等しく死ぬ。
 そして蓄えても、自分が死んでしまえばそれは他人のものになることを嘆く。

 しかしこの詩人は行くところまで行って、「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される」ということに気付かされる。
 たましいは自分でつかみ取るものではなく、神が買い戻してそして与えてくださるものだ、と。
 それはすなわち、「神が私を受け入れてくださる」証でもある。

 自分のたましいの主権は、神にある。自分ではない。

 そして彼は富や栄誉というものを死後「何一つ持って行くことができ」ないことを受け入れ、そして人々も全く同じなのだから羨む必要も全くないということを知る。
 また、そもそも持つ必要も、更に、持っていく必要もない。
 「神が私を受け入れてくだ」ったのだから。
 それが、必要十分な全てであった。
 たましいを買い戻してくださったということだ。

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