受け入れる

 「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。
 だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」(マタイ26:53-54)

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 イエスは十字架で死を遂げる。
 そのためには、総督ピラトのでたらめな決定を受け入れる必要があった。
 総督ピラトの決定というのは、祭司長達がイエスをピラトに訴えたからである。 祭司長達は、さまざまな過った証言をイエスにぶつけたのちに、イエスに「あなたはキリストか」と問うた。
 イエスがそうだと答えるや、人々はイエスの顔につばきをかけ、拳で殴りつけ、あるいは平手で打った。イエスはこの暴力を、すべて受け入れた。

 イエスがなぜ祭司長のところに捕らえられたかというと、弟子のユダが裏切ったからである。
 ユダと群衆がイエスを捕らえに来た際にイエスが仰ったお言葉が、冒頭の引用聖句だ。
 そのユダの裏切りについて、イエスは「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マタイ26:24)とは仰ったが、ユダの動きを止めることはせず、ユダの裏切りを受け入れた。

 「自分について書いてあるとおりに」というのが、聖書のどの箇所なのかは分からない。
 だが言えることは、イエスは聖書の実現ということだけを考えていたということである。
 そしてイエスは十字架で死に、やはり聖書通りに復活し、そして聖書通りに人々に「いのち」を豊かに分け与える存在(キリスト)となられた。
 そのためには、自分にとって不利で嫌な、さまざまな事々を、すべて受け入れられた。
 嫌だからと、「十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置」くことなど、イエスにとってはたやすいことだったろう。
 だが、それをやってしまうと、予め定められた筋書きが壊れてしまう。
 こう書くのはおこがましいのだが、「十二軍団」をやってしまうとイエスの生が全うされなくなってしまう。

 ところでV.フランクルという人がいる。
 戦時中ユダヤ人収容所に強制収容されてたのだが生き延びることができた、ユダヤ人精神科医?だ。「夜と霧」という著作で有名だ。
 私の好きな言葉なのだが、彼は「生きているとは、問われているということだ」と書き表している。
 私たちは、問われているのだ。
 もちろん、神にだ。
 イエスはもっぱら聖書の成就のために、次々と不本意なことを受け入れ続ける。
 神からの問いに応えるために。
 ちなみにゲッセマネでは、イエスは「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)と祈っておられる。
 不本意だし、嫌なのだ。
 だが、聖書の成就という問いかけのために、応え続ける。

 イエスに倣うというのは、この「応え続ける」という姿勢ではなかろうか。
 私たちには、イエスのように聖書の成就までは求められていない。
 私たちは、おそらく理不尽に暴力を振るわれることもなければ、絞首刑の椅子に向かわざるをえなくなることもない。
 ただ、神から問われている。
 何かを問われ続けている。
 イエスが予め分かっていたのと違って、それが何かはその時でないと分からない。
 そうであっても、その問いに応え続けることが、すなわち生であり、あのイエスに倣うことなのだと思う。

 私は、「聖書」というのは読み手がどこまでも受け身になる必要のあると思っている。

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