人の意欲

 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:9-13)

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 「まことの光」、「この方」とは、もちろんイエス。
 イエスが「ご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」。
 これは、今もってそうだ。
 というか、そもそも受け入れたくない。
(「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。」ヨハネ3:19)

 その中、「この方」を受け入れたいという人々も、いる。
 「その名」を信じたい人々。
 ひとつ言えることは、「人の意欲によって」は、「神によって生まれ」るということはない、と言うことだ。
 押そうが引こうが、ことこのことに関しては、人の意欲をもってしてはどうにもならない。
 かつて私も「神の子」を願って随分祈ったが、そのことで直ちに「神の子」になるわけもなかった。
 人の意欲などというものは、そうそうに捨ててしまうといい。
 捨ててしまえ。
 というよりも、いつの間に気付くと、人の意欲が働く余地自体、全くなくなってしまう…。

 ちなみに12節は、新共同訳「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」の方が分かりがいい。口語訳では「神の子となる力」となっているので、訳出がきわめて難しいのだろう。


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