リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

耳によい言葉

2010-05-22 21:22:51 | その他
 こんばんは。

 さいきん、長患いのスギ花粉症は収まりかけてきたのですが、新たにイネ科花粉が猛威を振るって。 鼻水でのどやられ。調子悪る。
 
 本日は朝日新聞でコラムを持っている落合恵子。知らない? そうだよね。 昔の深夜放送パーソナリティ。私ら以上だと知らない人はいなかったのですが。
 の話題は、ベケット。劇作家ベケットが「世界の涙の総量は不変だ。誰か一人が泣きだすたびに、どこかで、誰かが泣きやんでいる」といったという話。
 落合氏の趣旨は、沖縄基地問題にかこつけて”特定地域だけを泣かせておいてはいけない”というもので、それはそれとしまして

 そんなことがあってたまるか。世界の一人当り涙の総量は、確実に減っている。
 人間、不幸であればあるほど泣きゃしないけどね。泣いてたら飢えて死んじまうから。
 もちろんそういうことじゃなく。

 日本の涙は確実に減ってきた。今現在そこらで流れている涙の8割は、私には笑っちゃえる。 もちろん、私が若い頃見ていた涙の半数も、いまじゃ死にかけの年寄りから見れば、笑っちゃえたものだったに違いない。

 もちろん新たな涙は生まれたが、先進資本主義国では涙の減少は確実に起こる現象であり、一方、後進諸国が共同体で守られて涙の数が少ないなどと、言うとしたらそれはとんでもない嘘っぱちだ。
 人間にとっては、歴史は確実に前進している。
 
 さて、で、何をいいたいかというと、こうゆうヒューマニストはダメなんだよね、ということで。そんなことは我々の年代では常識だけれども。
 いわゆるヒューマンな心を「持つかのごとき姿」というものは自分の感情の確保と同義語といっていい。私が可哀想と思う現象はなくすべきだ。そりゃそうだがね。そこで終わる。なにせヒューマンだから。
 私は「戦わない」。自分に悪心情を覚える対応は、私は拒否する、それがヒューマンな心をもつ「かのごとき姿」です。
 上記2行が、世間で常識となっていない部分。わざわざ、この「ためになるブログ」に載せたところです。
 しかして、「良い人間」はヒューマニストで、かつ 「決して左翼ではない」。
    なあに、やっかみでさあ。
 
 世間というものはそういうふうにはできていないからね。社会で生きていくためには人を殺すこともある。これは資本家に限らないことだ。わたしにゃ幸いにもその運命がない、というだけでね。左翼というものは世の中で生きていく人間の営みなのさあ。 このおばさんも、社会を変える気があったら、涙の総量が変わらない、などとはいわないさ。自分の行為の意味、ないからね。
 
 資本家といやあ、同じ朝日新聞朝刊に、経団連の会長が、御手洗に代わって、米倉弘昌住友化学会長になったとのこと。
 この人が朝日の特集1面を牛耳っております。
 いわく、米国では企業家が超金持となるから社会貢献ができる。日本も社会貢献のために超金持になるべきだ、とのこと。
 住友化学の社会貢献というのは、前に当ブログでちょっと触れた「オリセットネット」(という防虫蚊帳(かや)でアフリカのマラリア蚊から人民を守ろうとしたもの)のことです。(他にあんのかよ。)  同記事でも偉そうにこのオリセットネットの宣伝をしていますが、この蚊帳は、同社の伊藤高明という人が「ひとりで報わるあてのない研究開発」の末作り出したもののはず。(この文面は他からひっぱってきました)。おかげさまで「国際派」として財閥企業の仲間入りで経団連会長様になれたのに、手柄はみんな自分のものだ。
 どこがどうして、超金持でなきゃ社会貢献ができないのかねえ。ヒューマンな社員一人と資本があればできることじゃないか。
 
 なんて、私もいったけど、要するに、この会長もただの小市民なんだよね。あなたの小学校の同級生と同様。
 経団連会長役というのは、日本の資本家を代表しなければならない。言ってることに矛盾があろうとなかろうと、言葉というものは世間の賞賛を得るように固めてぶつけるものさ。なに、誰もまともに聞いちゃいないし。
 小市民というのは、自分の気持ちを述べればよいのではなく、そうした役割を果たさなければならないのだよ。深夜放送アナウンサーと違って。ねえ、ご同輩。私もそうさ。

   世界を生きることは、評論ではない。 
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