こんにちは。東京地方冬の青空が広がって。あと1ヶ月くらいは快適でしょうか。
一方、11月下旬は訃報の季節。喪中欠礼葉書にて、30数年前会社に入ったときの同じ係の2学年先輩が亡くなったとのこと。
淋しいねえ、、、
優秀な人で、本気出して権力取ったら怖そうだなあ、と思ってましたが、8割くらいしか気を出さなかったのは良識に足を引っ張られたんでしょうか。ともかく、退職してしばらくして亡くなってしまった、ということで、友だちでも仲間でもありませんが、兄貴的に寂しいものです。
人って死んでしまうとその人にしか話せないことはもう話せなくなるんですよね。思うにそれも2通りありまして、過去の思い(思い出じゃなくて思い)と、今のことを話したい気持ち。古い古い友だちでもそういう人いません? 数回前に触れた行方不明の、男の人は、今のことを話したいんだけどなあ、、、1流企業に入ったんで生きて仕事してるとこのブログの立場的に迷惑でしょうから名前は書きませんが(日本で1人しかいない名前で)、鳴海の小野田兄(次男ですが。人間、寄り道が多いほうが偉いですな)に会いたいものです。(これならセメント関係しかでない)
ともかくも、30数年なんてすぐ経ってしまいます。何をするにせよ後悔はしないようにしたいものです、って私は終わりですが。
さて、本日の感心、朝日新聞の土曜特集の写真、高橋雄大氏。滋賀の山中のさば街道を上空から、にしてはぶれてないので、か、「高い」山の上から写したもの。
夕暮れの山中の木々の間をうねる道をヘッドライトの長時間露光で明るく輝かして、ま、これはただのアイデアかもしれないが、道の周りの木々(の葉)が適当にシャープさが崩れてまことに一幅の絵のよう。
この図柄のよさは到底通りすがりでは作れないだろうと思ったら、普通の報道カメラマン氏のようでした。雄大という名前は30年位前一世を風靡した名前なのでそんな歳かな。
よく日本と西欧の絵の違いは空気(の湿っぽさ)といわれるけど、それはそうだけど、また、山の木々の種類も違うふうに思われます。日本の木の種類は西欧より断然多いんだって。こんな夕方の写真でも照葉樹のきれいな色の違いが、、、と思ってよく考えると最近撮ったにしては紅葉が少なそうな。本人的にも傑作で取っといた、とか。
それにしてもどうみても最低でも3分は露光をかけているような。ヘリコプターの腕がいいのか、カメラのぶれ補正が驚異的なのか、、、ま、高い山の上だろうけど、適当な山が見当たらない。
さて、現在今回作品のゲラ著者校正中。あいかわらず読みづれえなあ、どうにかならんのか、しかし校正の方は苦痛だったろうなあ、なんて思いつついまだに段落減少化作業も。段落統合は、この前の結論のように、客観的に見てそのほうがよさそうだ、というわけではありますが、しかし注をつけておきたいな、と再度、段落問題。
私は "The Elements of Style" は30年前に購入し、いまだに本棚にあります。
ということは「パラグラフの書き方」の常識くらいは知っている、ということです。
ところが残念ながら私はアナーキストで、権威なんちゅうものを気にしたことがございません。
さて、ここで別の情報を。
三浦順治さんが『ネイティヴ並みの「英語の書き方」がわかる本』というパラグラフや文の常識を知るにはとてもよい本の中で(これは出たとき買った)、Robert (B) Kaplanという英語圏で有名な人を紹介していて(Cultural Thought Patterns in Intercultural Education。英語でないとでてこない)次のよう。
留学生の文章から見て、初めから一直線で結論までいくのは英語圏のみの特徴。
東洋人の文章は遠回りの渦巻き。アラブは反復、対照が多く不明確。フランス、スペイン、イタリア等は脱線や主題に無関係の話ばかり。ドイツは脱線の脱線あり、結論においてさえ脱線する。ロシアは脱線の末、尻切れに終わる、と結論したとのこと。
どうでしょうか、権威を重んずる方々は、ご自身の英語帝国主義に気づかれたでしょうか。
文章というものは母語の財産です。奴隷以外には毛唐のマネをする必要なんかありゃあしない。もちろん、それで食べていく人はそうでないと食べていけないんだから「それでもしょうがない」ということだ。
こうゆう言い方をするから引かれてしまうね。まあそういうことです。
本日は、言い訳でした。
一方、11月下旬は訃報の季節。喪中欠礼葉書にて、30数年前会社に入ったときの同じ係の2学年先輩が亡くなったとのこと。
淋しいねえ、、、
優秀な人で、本気出して権力取ったら怖そうだなあ、と思ってましたが、8割くらいしか気を出さなかったのは良識に足を引っ張られたんでしょうか。ともかく、退職してしばらくして亡くなってしまった、ということで、友だちでも仲間でもありませんが、兄貴的に寂しいものです。
人って死んでしまうとその人にしか話せないことはもう話せなくなるんですよね。思うにそれも2通りありまして、過去の思い(思い出じゃなくて思い)と、今のことを話したい気持ち。古い古い友だちでもそういう人いません? 数回前に触れた行方不明の、男の人は、今のことを話したいんだけどなあ、、、1流企業に入ったんで生きて仕事してるとこのブログの立場的に迷惑でしょうから名前は書きませんが(日本で1人しかいない名前で)、鳴海の小野田兄(次男ですが。人間、寄り道が多いほうが偉いですな)に会いたいものです。(これならセメント関係しかでない)
ともかくも、30数年なんてすぐ経ってしまいます。何をするにせよ後悔はしないようにしたいものです、って私は終わりですが。
さて、本日の感心、朝日新聞の土曜特集の写真、高橋雄大氏。滋賀の山中のさば街道を上空から、にしてはぶれてないので、か、「高い」山の上から写したもの。
夕暮れの山中の木々の間をうねる道をヘッドライトの長時間露光で明るく輝かして、ま、これはただのアイデアかもしれないが、道の周りの木々(の葉)が適当にシャープさが崩れてまことに一幅の絵のよう。
この図柄のよさは到底通りすがりでは作れないだろうと思ったら、普通の報道カメラマン氏のようでした。雄大という名前は30年位前一世を風靡した名前なのでそんな歳かな。
よく日本と西欧の絵の違いは空気(の湿っぽさ)といわれるけど、それはそうだけど、また、山の木々の種類も違うふうに思われます。日本の木の種類は西欧より断然多いんだって。こんな夕方の写真でも照葉樹のきれいな色の違いが、、、と思ってよく考えると最近撮ったにしては紅葉が少なそうな。本人的にも傑作で取っといた、とか。
それにしてもどうみても最低でも3分は露光をかけているような。ヘリコプターの腕がいいのか、カメラのぶれ補正が驚異的なのか、、、ま、高い山の上だろうけど、適当な山が見当たらない。
さて、現在今回作品のゲラ著者校正中。あいかわらず読みづれえなあ、どうにかならんのか、しかし校正の方は苦痛だったろうなあ、なんて思いつついまだに段落減少化作業も。段落統合は、この前の結論のように、客観的に見てそのほうがよさそうだ、というわけではありますが、しかし注をつけておきたいな、と再度、段落問題。
私は "The Elements of Style" は30年前に購入し、いまだに本棚にあります。
ということは「パラグラフの書き方」の常識くらいは知っている、ということです。
ところが残念ながら私はアナーキストで、権威なんちゅうものを気にしたことがございません。
さて、ここで別の情報を。
三浦順治さんが『ネイティヴ並みの「英語の書き方」がわかる本』というパラグラフや文の常識を知るにはとてもよい本の中で(これは出たとき買った)、Robert (B) Kaplanという英語圏で有名な人を紹介していて(Cultural Thought Patterns in Intercultural Education。英語でないとでてこない)次のよう。
留学生の文章から見て、初めから一直線で結論までいくのは英語圏のみの特徴。
東洋人の文章は遠回りの渦巻き。アラブは反復、対照が多く不明確。フランス、スペイン、イタリア等は脱線や主題に無関係の話ばかり。ドイツは脱線の脱線あり、結論においてさえ脱線する。ロシアは脱線の末、尻切れに終わる、と結論したとのこと。
どうでしょうか、権威を重んずる方々は、ご自身の英語帝国主義に気づかれたでしょうか。
文章というものは母語の財産です。奴隷以外には毛唐のマネをする必要なんかありゃあしない。もちろん、それで食べていく人はそうでないと食べていけないんだから「それでもしょうがない」ということだ。
こうゆう言い方をするから引かれてしまうね。まあそういうことです。
本日は、言い訳でした。
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