リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

他国へ介入できる範囲

2010-03-28 11:16:35 | 歴史への視角
 こんにちは
 金曜日は1年ぶりくらいで、飲む人たちと飲み会。なかなか表現が微妙ですが、飲まない人たちとか嗜む人たちとか飲みすぎる人たちなんかだと遅くならないのですが、10年ぶりらいに最終電車に乗ってしまいました。(いつもは最終1本前に乗れるように帰る)
 年度末なんでしょうか、すし詰め。こんなだったっけ。乗れない人はどうなるんだろう、って、自分も最終出発が10分遅れなかったらそうなったのですが。ま、世の中そんなもんですよね。(どんなもんだ)
 

 さて、今日の朝日新聞書評は、サマンサ・パワーとか言う人の「集団人間破壊の時代」とか言うほんの話があって。久保文明とかいう東大教授。
 久保が言うには、〈アメリカ国家やアメリカ市民が、各国(各地)のジェノサイドを止められたのに止めなかった、これが問題だ〉、という本だそうです。(〈 〉は分かりやすくしただけで、引用ではありません。いやなら、そういう誤解が与えられるような書き方はするな、ということでもあります。誰が新聞を引用符で読むか。)
 
 なんちゅうか、まあ。
 これじゃブッシュとどこが違うのか。久保は、ぜんぜんわかっていない。
 (サマンサという人は、いい人なんでしょうが)
 悪いことをしてたら介入せよ、ってことなら、アメリカの非人道的諸制度にも日本は介入しなくてはならないな。どうせ言っても聞きやしないからカミカゼ精神で自衛隊機にワシントンに特攻させなければならない。
 それでよいのか。

 じゃあ、悪いことをほっておいていいと言うのか、って、悪いこと一般なんてないのだよ。世間は、歴史的にしか動かないのだ。
 江戸中期、いくら女郎制度を解体しても、それは女郎を飢え死にさせるだけだ。
 食うものもなく争闘している部族を止めるのは、ごく一部の狂気の若者を殺す以外に、その後10年間食料が手に入る環境を与えなければならない。アメリカがそれをするというのか。
 しかし、一方、他国家が介入できる悪もある。
 それは経済問題に関わらない、武力権力の行使に由来する国家自体の施策だ。
 「支配暴力の」悪は、一人一人の民衆には関わらない。民衆は環境の変化に沿って自分の生活を変えるのみだ。彼らは今までどおりに不自由ではあるが、今までどおりには自由である。 
 統一された国家で生ずる国家の施策上のジェノサイドに限っては、これを国家や他国の民衆が止めようと努力することができる。ユダヤ人虐殺のような。
 女郎制度は解体すれば悲惨が生ずるが、江戸各藩の農民収奪支配体制を江戸中央幕府が変え、その後、女衒を伝馬町に送って女郎を農村に返せば、女郎制度は解体される。
 
 アメリカの政治家はいざ知らず、天国日本の評論家はそのくらいの違いをわきまえて伝えていかなければならない。あ、教授だからアホでもよいのか。(と、書いてから、もしかして人の良い人で失礼かも知れぬ、と久保という人を検索しましたら、ただの解説者のもよう。東大教授でただの解説者(の立場を崩さない)という見識はなかなかなものです)
コメント
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