こんばんは。いやこの題は不正確で、極左に調整はいらないとか、野党であるべき党派が、一人前に調整づらするな、とか。
どうにせよ、ほんとの主題は、また違うので。
ほんとの主題?
さて、感情と論理は、どちらが重要?
隈のような科学主義者は、論理が重要だろう、と思ったら間違い。
昔、ヘーゲルは、人間が無反省に現実を睥睨(へいげい・たかをくくって偉そうに見る)することを、「悟性」と呼んで諌めました。
そうじゃないんだって。人は、感情を忘れたりはしない。神もそれはご存知だ.かくして、世界というのは、悟性ではなく、理性にのっとって進む。
飛びますね。
で、テーマの入り口ですが、
社民党の党首が、沖縄基地問題で民主党党首と検討を重ねたそうな。
だからそうじゃないんだってば。ああた、検討して妥当な線を見出そうとしたんでしょ?
(ほら、最初のコメンターさんが、党首のファンだから、私は遠慮しています。
そりゃ、当然払う敬意ってもんです。コメンターさんへの、ですが)
世の中にフィットすることは、すべて悟性の問題、知恵薄き人間の問題なのです。
ほっておけば、全ての考えは「現在がどうだから」、という考えを生む。
あなたも私も、現在はこうゆう状況だから、「こうするしかないじゃないか」、そう考えて満足する、それは知性ある人間、誰もがやることだ。
さてはて、それで現在が変えられるのか?
しかして、それは、ヘーゲル的にはバカの仕業であり、われわれ的には資本主義の流れに乗っている、それだけの時間経過に過ぎない。
そんなものに社民党党首が時間を費やす必要などありはしない。どっかの中立的な国家官僚(そんなものは日本に限ってはざらにいるが) が一人居れば済む仕業だ。
そうじゃないの。
社会にとって妥当な、なあなあな「検討」など、自民党で十分なの。
妥当ではない、それをすると東京都民が困る、大阪府民が困る、神奈川県民が困る、到底実現不可能な、しかし、沖縄県民にすればそれが、東京や大阪や神奈川の工場設備と引き換えに欲しいものなのです。
そんなの実現不可能だって? そう、そういってくれる人がいないと、この話が続きません。
そんなのは日本の現実で実現不可能なのです。
しかし、それは実現させなければならない。
「何言ってんだよ、できないって言ってるじゃないかよ」 って。
それが、ようやく、始めの一歩なのです。
それが矛盾というものです。
この実現させなければならない矛盾を引き受ける人間が持たなければならないものが、第1に、感情です。
「ヤマトンチュウ許してなるものか」「先祖の恨みを覚えよ」 何でもいいのですが、まず人間の気持ち、これがないなら問題など生じません。でも問題は生じている、この感情を分かった人間は、ついで、この感情を持続させなければならない。このつまんない話が、世間の人は知らない、『重要な』課題なのです。
その次に、矛盾といわれようがこれは解決しなければならない。
つまり、第2に、この気持ちの実現方法の認識です。この第2をつかさどるものが、ヘーゲルにとっては理性です。
じゃあ、どうしたらいいの? 実はヘーゲルにはそんな悩みはなかったが、ヘーゲル以後、しかし、どうやってそんな世ができるのか、弟子たちが考えつづけた、これをヘーゲル左派といいます。
いつか、そんな世が来るのだ、消え入りそうな感情を支えていくもの、それが歴史の希望としてある。そこでヘーゲル左派の人々が提出しつづけたのが、「人間」なのでした。
へーゲリアンは、神の変わりに人間を据えた。それはこういうことです。
(それがわからない自称哲学者が、いくらヘーゲルのドイツ語を訳してみたところで、何の意義もありはしません。「哲学者」なんて名前は返上しな。)
中間が長い。
かくて、世の中を変えたい人間は、調整してはならない。
悲しみや苦しみを知る人間に大切なものは、否定する感情なのだ。
これを忘れたら、それは国家官僚だ。
(官僚をけなしちゃあないぜ。逆に、官僚は食うための所作だが、政治家は自分で採りつづけている道だ、というのっぴきならない事情があるだろ、といっている)
(この辺で、切るけど、感情とか信念なんて、実は人間にはないんだよね。
じゃあなにがあるんだ? そっから先は、行為理論の出番なんだよね)
どうにせよ、ほんとの主題は、また違うので。
ほんとの主題?
さて、感情と論理は、どちらが重要?
隈のような科学主義者は、論理が重要だろう、と思ったら間違い。
昔、ヘーゲルは、人間が無反省に現実を睥睨(へいげい・たかをくくって偉そうに見る)することを、「悟性」と呼んで諌めました。
そうじゃないんだって。人は、感情を忘れたりはしない。神もそれはご存知だ.かくして、世界というのは、悟性ではなく、理性にのっとって進む。
飛びますね。
で、テーマの入り口ですが、
社民党の党首が、沖縄基地問題で民主党党首と検討を重ねたそうな。
だからそうじゃないんだってば。ああた、検討して妥当な線を見出そうとしたんでしょ?
(ほら、最初のコメンターさんが、党首のファンだから、私は遠慮しています。
そりゃ、当然払う敬意ってもんです。コメンターさんへの、ですが)
世の中にフィットすることは、すべて悟性の問題、知恵薄き人間の問題なのです。
ほっておけば、全ての考えは「現在がどうだから」、という考えを生む。
あなたも私も、現在はこうゆう状況だから、「こうするしかないじゃないか」、そう考えて満足する、それは知性ある人間、誰もがやることだ。
さてはて、それで現在が変えられるのか?
しかして、それは、ヘーゲル的にはバカの仕業であり、われわれ的には資本主義の流れに乗っている、それだけの時間経過に過ぎない。
そんなものに社民党党首が時間を費やす必要などありはしない。どっかの中立的な国家官僚(そんなものは日本に限ってはざらにいるが) が一人居れば済む仕業だ。
そうじゃないの。
社会にとって妥当な、なあなあな「検討」など、自民党で十分なの。
妥当ではない、それをすると東京都民が困る、大阪府民が困る、神奈川県民が困る、到底実現不可能な、しかし、沖縄県民にすればそれが、東京や大阪や神奈川の工場設備と引き換えに欲しいものなのです。
そんなの実現不可能だって? そう、そういってくれる人がいないと、この話が続きません。
そんなのは日本の現実で実現不可能なのです。
しかし、それは実現させなければならない。
「何言ってんだよ、できないって言ってるじゃないかよ」 って。
それが、ようやく、始めの一歩なのです。
それが矛盾というものです。
この実現させなければならない矛盾を引き受ける人間が持たなければならないものが、第1に、感情です。
「ヤマトンチュウ許してなるものか」「先祖の恨みを覚えよ」 何でもいいのですが、まず人間の気持ち、これがないなら問題など生じません。でも問題は生じている、この感情を分かった人間は、ついで、この感情を持続させなければならない。このつまんない話が、世間の人は知らない、『重要な』課題なのです。
その次に、矛盾といわれようがこれは解決しなければならない。
つまり、第2に、この気持ちの実現方法の認識です。この第2をつかさどるものが、ヘーゲルにとっては理性です。
じゃあ、どうしたらいいの? 実はヘーゲルにはそんな悩みはなかったが、ヘーゲル以後、しかし、どうやってそんな世ができるのか、弟子たちが考えつづけた、これをヘーゲル左派といいます。
いつか、そんな世が来るのだ、消え入りそうな感情を支えていくもの、それが歴史の希望としてある。そこでヘーゲル左派の人々が提出しつづけたのが、「人間」なのでした。
へーゲリアンは、神の変わりに人間を据えた。それはこういうことです。
(それがわからない自称哲学者が、いくらヘーゲルのドイツ語を訳してみたところで、何の意義もありはしません。「哲学者」なんて名前は返上しな。)
中間が長い。
かくて、世の中を変えたい人間は、調整してはならない。
悲しみや苦しみを知る人間に大切なものは、否定する感情なのだ。
これを忘れたら、それは国家官僚だ。
(官僚をけなしちゃあないぜ。逆に、官僚は食うための所作だが、政治家は自分で採りつづけている道だ、というのっぴきならない事情があるだろ、といっている)
(この辺で、切るけど、感情とか信念なんて、実は人間にはないんだよね。
じゃあなにがあるんだ? そっから先は、行為理論の出番なんだよね)