ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

カント24~心霊論的人間観の確立を

2013-09-16 08:43:55 | 人間観
 最終回。

●結びに~心霊論的人間観の確立を

 私のいうところの心霊論的人間観では、死は無機物に戻るのではなく、別の世界に移るための転回点であると考える。身体は自然に返る。しかし、霊魂は、死の時点で身体から離れ、死後の世界に移っていく。死の時に近づいた人間には、来世への移行または別の生への再生に備える一種の本能が働くと考えられる。
 現世では、健康な人には通常、霊は見えない。現実的な生活をするのに、視霊の能力は必要がない。霊が見えるという体質の人がいるが、真に健康な状態になると、不要なものは見えなくなる。超能力や霊能を持つ人間は、かえってそれがゆえに、負の作用をする霊的エネルギーを受けて、健康を害したり、人格を統合できなくなったりする場合がある、と私は考える。
 死後霊魂が永遠不死であることは、有限の人間には証明できない。だが一神教であれ、多神教であれ、無神論であれ、多くの人々は死後の霊魂の存続を信じ、来世の存在を期待してきた。生死を一回きりのものと考える単生説と、生死を幾度か繰り返すという多生説がある。後者の場合、人間は人間としてのみ輪廻転生すると考えるか、人間に限らず動物を含む他の生命体にも再生すると考えるかの違いがある。いずれにしても、死後の霊魂の存続を信じ、来世の存在を期待することは可能である。
 心霊論的に見た人間の成長と変化は、蚕における「蚕―サナギー成虫」の成長と変化に例えることができる。この世における人間の生活は、蚕の段階に当たる。人間は、この世界に生まれ、成長し、活動を行い、やがて死ぬ。息を引き取った後、しばらくの期間における遺体は、サナギの段階に当たる。そして、蚕がサナギから抜け出て、成虫となって飛び立つように、人間の霊魂は次の段階に移っていく。蚕には、成虫の世界は分からない。これと同様に、現世の人間には、来世の存在は分からない。寿命が尽きたとき、初めて次の段階に入る。蚕の段階にある人間が、来世に関心を寄せても、時が来なければ、真相はわからない。自ら経験できる段階になった時に、初めて経験できるようになる。蚕は蚕として成長・活動していけば、やがて時が来て、サナギになり、成虫になる。人間も現世においては、現世において成長・活動することに専念していけば、やがて時が来て、次の段階に移り、その段階でなければ経験できないことを経験するようになる。人間が体験できる死の際の最高の現象が、死後硬直なく、体温冷めず、死臭・死斑のない「大安楽往生(崇高な転生)」(註)である。今後、世界の科学者・医学者が大安楽往生現象を研究するならば、人間の真相が知られるようになるだろう。
 カントは、『視霊者の夢』に、次のように書いた。「人間の魂は、この世に生きている時でも、霊界のすべての非物質的存在と解きがたく結ばれた共同体の中にあること、さらに、人間の魂は、交互に霊界内に作用し、霊界からも印象を受けているのだが、すべてが調子よくいっている時は、魂は人間としては意識されていないということは、大学の講義流に言えば、すでに証明されたも同然か、あるいは、もっとつまびらかに研究すれば容易に証明されることとされるだろう。いっそう巧みに表現すれば、どこで、いつということは、私にも分からないけれども、きっと将来、証明されることになるであろう」と。
 カントがこのように書いてから約250年がたった。未だカントが抱いた将来の証明への期待は、現実のものとなっていない。テレパシー、透視、遠隔視、予知、念力等について、欧米の諸大学・研究所で研究が続けられているが、依然として科学者の間では超能力について、有無自体さえコンセンサスが得られていない。まして幽体離脱、霊界通信等、霊魂や霊界については、実験による検証はさらに困難である。安易に論じると、カントが批判した独断的形而上学者と同じ道に迷い込む。幽体離脱、霊的交通については、まだしも証言の事実関係を確認する方法が取れるが、スヴェーデンボリが書いたような霊界訪問記の類になると、事実か創作か、体験的要素があるのかすべて幻覚か、未だ検証はほぼ不可能であるのが、現代科学の段階である。
 カントの時代以降、人類はカントが基礎づけた自然科学の発達によって、物質的には大いに進歩した。物質的世界に関する知識や、物質的素材を利用する技術は、急速に発達した。しかし、意識の、特に理性や知性の働きばかりが伸長して、人間の徳性や霊性はかえって退歩している。近代物質科学の発達が極めて急速だったために、人間の精神面がそれについて来られなかった。
 だが、20世紀末から、人類は、新たな霊性の発達の段階を迎えている。ユングを継承したトランスパーソナル学は、無意識の一面には霊的次元があることを認め、霊性を含めて、人間の心を全体的に理解しようとしている。そして、人間を単に現世的な生物的存在としてではなく、現世と来世、彼岸と此岸、見える世界と見えない世界の両方にまたがって生きる霊的存在と理解し、人間の全体性をとらえようとしている。それと同時に、科学と宗教の総合が実現されつつある。それによって、近代の世界観・自然観・人間観は、大きく転換しつつある。この動きを加速しなればならない。そして、物質文化と精神文化が調和した物心調和の文明を建設しなければ、人類は自ら生み出した物質科学の産物によって、自滅しかねないところに来ている。この危機を避け、地球に共存共栄の世界を実現するには、霊性の実在を踏まえた精神的・道徳的な向上を目指す必要がある。
 カントが構築した心霊論的信条に基づく道徳哲学は、こうした観点から再評価されるべきものと思う。そして、カント以降の科学・哲学・心理学・超心理学等の展開を踏まえて、この21世紀に心霊論的人間観を確立し、人類の精神的・道徳的な向上を促進すべきと思う。(了)


・大安楽往生(崇高な転生)については、下記をご参照ください。
http://www.srk.info/library/tensei.html

カント23~現代の科学者による仮説

2013-09-15 08:39:17 | 人間観
●現代の科学者による様々な仮説

 ユング、パウリの仮説は、相対性理論の解釈に関わるものである。アルバート・アインシュタインは、特殊相対性理論で、E = m c2という関係式を明らかにした。この関係式は、エネルギー(E)と質量(m)が等価であることを示すものである。Cは光速度定数である。だが、この関係式だけでは、精神という要素が出てこない。アインシュタインは、一般相対性理論の論文の発表後、自然界のすべての力を統一する統一場理論をめざし、重力と電磁気力の統一を試みたが、自ら完成させることはできなかった。その一方、アインシュタインは、アプトン・シンクレアの著書『精神ラジオ』に序文を書き、ヴィルヘルム・ライヒのオルゴン・エネルギー探知機に強い興味を示すなど、精神・生命の領域にも関心を向けていた。
 現代の科学者から、精神・生命の領域を含む科学的な仮説は、いろいろ出されている。物理学者フィルソフは、光速より速いニュートリノのような性格を持つ精神子マインドンを提案した。電子工学者の関英男は、電磁力-重力系とは別に幽子による情報系を想定し、これをサイ情報系と呼びんだ。物理学者アーサー・エディントン卿は5次元理論を発表したが、その後、4以上の空間次元や2以上の時間次元の存在を仮定する理論が数多く研究されている。数学者エイドリアン・ドッブスは、時間に2次元性を与えた5次元波動場において、虚の質量を持つプシトロンという精神情報の担い手を仮説した。これを受けて、神経生理学者ジョン・エクレス卿は、プシトロンは特異な状態のニューロンに作用し、大脳ネットワークに超時空的な影響場が形成されるという仮説を出した。大脳にホログラフィー理論を応用した大脳生理学者カール・プリグラムは、宇宙全体が一種のホログラフィーになっており、脳は宇宙の変化した一部だという説を唱えている。
 理論物理学者デヴィッド・ボームは、物質も精神もエネルギーとして暗在系に、数学でいう直交変換によってたたみ込まれており、暗在系にはおそらく意味の場が存在し、それが反映したものが物質であり、身体であり、明在系そのものだという仮説を出している。物理者ブライアン・ジョセフソンは、物質の存在はその背後にある潜在的な知性を反映しているという考えを提案し、またすべての自然現象の根底に生命のプロセスが存在するという説に賛同して、量子力学における波/粒子の二重性に似た量子/生物の二重性が存在することを指摘している。ボームやジョセフソンの考え方は、哲学的に見ると、プラトンやカントに通じる。また東洋におけるインドのヴェーダーンダ哲学や仏教、道教にも通じるものである。
 ここに挙げた科学者のうち、パウリ、アインシュタイン、ジョセフソンはノーベル物理学賞、エクレスは同生理学・医学賞を受賞している。他もみな世界的に著名な一流の科学者である。
 ところで、私が生涯の師とし、また神とも仰ぐ大塚寛一先生は、戦前電熱器の事業をされ、多くの特許を取った発明家でもあった。大塚先生は、昭和20年代から東京在住の各国有力外国人に対して、超心理学を発展させるように指導された。昭和33年(1958)には、米国デューク大学にJ・B・ラインを訪れ、超能力の実験を視察し、講演をされた。昭和47年(1972)には、TBSテレビに出演し、ご自身が起こされる奇蹟現象に関して、深遠な見解を述べられた。その番組を見た全国の視聴者から、視聴中に奇蹟を体験したと大きな反響があった。同年、現世を去った後も生前の予言の通り、今日も奇蹟を起こし続けておられる。
 大塚先生から拝聴しているところによると、宇宙には現象界の他にいろいろな霊界が存在する。ちょうどテレビのチャンネルを回すと、1チャンネル、2チャンネル、3チャンネル等と異なる波長の世界が映るように、この宇宙には様々な波長が錯綜している。これからこの方面の科学が発達すると、そういう霊界の様子が分かるようになっていく。そうなると、人類は未来にまで感応するようになる、とのことである。
 僭越ながら私見を述べると、数学には虚数という数がある。二乗するとマイナスの実数になる数である。理論上の数だが、量子力学は虚数を使う。虚数の実在を否定すれば、量子力学は認められず、量子力学をもとにするエレクトロニクスも存在できなくなる。このことは、世界は見えるものだけでなく、見えないものによっても成り立っていることを示唆するものだろう。見えないものの代表が、私たちの精神である。人類は物質的な世界については、多くの知識を得つつあるが、精神の領域については、まだほとんど理解ができていない。私の思うに、物質あるところ精神があり、精神があるところ物質がある。物質と精神は陰陽という相補的な関係にある。ここで相補性の根源または統一として重要なのが、0(ゼロ)である。数字の0は、インドの空(シューニャ)の観念から生まれた。空はただの無ではない。無限大の潜勢力を秘める。概念的に言えば、0にして∞、∞にして0である。量子力学では、素粒子の存在は確率論的にしか確定できず、空間と粒子の区別があいまいになり、空間そのものがエネルギーを持つと考えられている。空間が小さいほど高いエネルギーを保有する可能性が高く、これをゼロ点エネルギーという。最小の定数をプランク定数 h というが、ボームは、プランク・スケールを最小の波長として、1立方センチの中の空間エネルギーを計算すると、それは現在知られている宇宙の全物質が持つエネルギーより、はるかに大きくなると述べている。今後、物質と精神の相補性を解き明かすことができれば、人間とは何かという答えに近づくとともに、宇宙の実在の原理に迫ることができるようになるだろう。

 次回が最終回。

■追記

 上記の拙稿を含む「カントの哲学と心霊論的人間観」は、下記に掲載しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11c.htm

人権61~家族間の権力関係

2013-09-14 08:51:17 | 人権
●家族間の権力関係

 権力の重層構造において、見落とされがちなものに、家族間の権力関係がある。社会は個人を単位とするだけでなく、家族を単位として構成されている。社会の各階層において、ある家族が他の家族を保護・指導したり、支配・収奪したりするという構造がある。ここに家族間の権力関係が存在する。権力関係は、個人間の関係だけでなく、家族間の関係でもある。むしろ家族間の関係を主とし、次に個人間の関係があると考えられる。
 様々な集団において、首長の家族とその親族(血族・姻族)が別の家族を保護・指導または支配・収奪する。そのもとに諸家族の間に優位・劣位の関係が生じ、保護ー受援または支配―服従の関係が見られる。国家の場合、国王と臣下・国民の関係というように、個人を単位とした1対多の権力関係が表象されがちだが、同時に国王とその家族・親族という家族的集団が優位の集団となっている。国王の妻は国王に次ぐ地位にあるとされ、国王の子は世襲によって次の国王候補、国王の母は国王の母として特別の身分を持つ。他に兄弟姉妹・おじ・おば・祖父母がその関係に応じた身分を持つ。優位者の集団は、単に個人の集合ではなく、家族の集合でもある。財産も家族が所有し、相続される。権利も、家族内で継承される。権力もまた優位の家族が家族集団として所有し、継承する。これが古代から現代まで社会まで貫いている社会の構造である。
 このことは、社会的権力、国家的権力の基盤となっている。家族的権力は、社会の各階層を縦断かつ横断して家族間の権力として作用していることを意味する。氏族的・部族的な共同体を核として構成された国家では、家族間に保護―受援的な関係が存続する傾向がある。だが、近代西欧社会では、共同体が解体され、家族間に支配-服従的な関係が拡大する傾向を強めてきた。家族間の権力関係は、近代社会の各階層を縦横に貫き、複雑な相互作用を展開している。
 現代社会でも、各国の社会には、それぞれ優位にある家族的集団がある。これは君主制・共和制、自由主義・共産主義等の体制の違いに関わらず共通して見られるものである。近代西欧では、王族・貴族に新興の資本家がこの優位者の階層に加わり、国家によっては王族・貴族を駆逐した。優位者の階層に参入した資本家としては、ロスチャイルド家・ロックフェラー家が代表的である。旧ソ連では、政治権力を握った共産党の官僚が、革命貴族となった。最高指導者の家族、幹部の家族は特権的な存在となって富と権力を恣にし、労働者の家族は男女に関わらず、労働者として厳しいノルマを課せられた。現代中国はこの傾向をさらに極端化した状態となっている。高級幹部の子弟による太子党の家族と、農村で生活基盤を失って都市に流入する億単位の流民の家族の差は、開く一方である。
 個々の家族の身分・地位の上昇・下降という変動はあるが、社会の家族間的な構造は変わらない。この構造を硬直化させるのは、権利や所得の格差の拡大であり、逆に権利や所得の格差の縮小は、家族間の変動を活発にする。
 人権という概念は、近代西欧的な個人を権利の主体とし、個人を単位として発達した。そのため、こうした血縁と婚姻を主とした自然的・生命的な集団を単位とした権利関係と権力関係を見落としがちである。
 個人の人権という観念は、家族を分解し、共同体を解体するとともに、集団の合力を分散し、個人の力に縮小する。個人個人に個別化されるため、個々の力を結集できない社会は、より大きな権力によって、支配されたり、操作されたりしやすくなる。大衆社会における独裁体制の出現は、その典型である。また他国が侵攻してきた場合、共同性の低い社会は外部の権力によって容易に支配され、収奪される。現代日本はその典型となりかねない。これに対抗するには、個人の人権よりまず家族の尊重や地域社会や国家国民の共同性の強化が有効である。
 近代西欧社会では、共同体の解体と社会の個別化が進んでも、支配集団は家族性を保ってきた。支配層では有力家族が家族的な繁栄をし、権利と権力を継承する。被支配層では家族が分解され、個人が群れているだけの社会となる。結婚や育児、家産の保持が困難になる。
 人権の概念は被支配層における個別化、家族分解を進めることによって、かえって個人の権利を危うくする。個人の権利より家族の尊重・保護が図られねばならない。もともと人間は家族という自然的・生命的な集団を単位としているので、家族的紐帯の維持が、個人の権利、人格の成長のために必要なのである。

 次回に続く。

カント22~ユングの共時性

2013-09-13 07:32:00 | 人間観
●ユングの「共時性」という仮説

 ショーペンハウアーは、後代のニーチェ、フロイト、ユング等に大きな影響を与えた。ニーチェは、カントとは正反対に神や霊、死後の世界、不可視界を否定する一方、現実世界における生を肯定し、生命の本質を「力への意志」であるとした。「力への意志」こそ、生の唯一の原理である、とニーチェは説いた。これは、ショーペンハウアーの意志を、否定すべきものから肯定すべきものへと逆転させた思想である。
 ショーペンハウアーは、フロイトとユングを啓発し、無意識の研究を促した。精神分析医のフロイトは、性本能の基底となるエネルギーをリビドーと呼んだ。そのエネルギーの移動と増減によって、すべての精神現象を説明しようとした。フロイトは、リビドーをショーペンハウアーの意志と同じものと考えた。
 機械論的唯物論的な性向を持つフロイトは、視霊現象やテレパシー等に対しては懐疑的だった。自身が様々な超常現象を体験していたユングは、師のフロイトと考えが合わず、別の道を進んだ。患者の治療を通じて深層心理の研究を深め、西洋の錬金術等を心理学的に解釈し、また易や道教、チベット仏教等の東洋思想を西洋に広く紹介した。
 ユングは、10代後半にショーペンハウアーを読み、『意志と表象としての世界』を通じて仏教に触れた。それが、ユングが東洋の宗教・思想を広く研究するきっかけとなった。ユングはショーペンハウアーには、納得がゆかなかった。カントの物自体を意志とし、意志を形而上学的な実体にしたことは、過ちだと考えた。その一方、視霊に関する小論には強い影響を受けた。カントの『視霊者の夢』にも影響を受け、医学生時代にスヴェーデンボリの大著を読んで、彼を「偉大な科学者にして神秘家」と称えた。カントとの関係で、ユングがスヴェーデンボリをどう見たかを書くに当たり、まずユング独特の仮説である共時性の説明をしたい。
 ユングは、自然科学の基本原理である因果律では説明のできない意味深い偶然の一致という現象を自ら体験していた。この現象を説明するために、非因果的でしかも同時的な二つの事象の間を関連づける原理として、「共時性(シンクロニシテイ)」という仮説を立てた。
 偶然の一致の例として、ユングは次のような体験を挙げている。ユングの患者に、狭い観念にしばられた若い女性がいた。頑固で現実的な物事以外は認めようとせず、自分の殻に閉じこもり、心の交流ができないため、治療が難航していた。ユングは書く。
 「ある日、窓を背にして彼女の前に座って、彼女の雄弁ぶりに聞き耳をたてていたのである。その前夜に、彼女は、誰かに黄金のスカラベ(神聖昆虫)を贈られるという非常に印象深い夢をみたのであった。彼女がまだこの夢を語り終えるか終えないうちに、何かが窓をたたいているかのような音がした。 振り返ってみてみると、かなり大きい昆虫が飛んできて、外から窓ガラスにぶつかり、どう見ても暗い部屋の中に入ろうとしているところであった。筆者はすぐに窓を開けて、中に飛び込んできた虫を空中で捕らまえた。それはスカラバエイデ、よく見かけるバカラコガネムシで、緑金色をしているので金色のスカラベに最も近いものであった。『これがあなたのスカラベですよ』と言って、筆者は患者さんにコガネムシを手渡した。この出来事のせいで、彼女の合理主義に待ちわびていた穴があき、彼女の理知的な抵抗の氷が砕けたのであった」(『共時性について』エラノス叢書2、平凡社)
 この出来事をきっかけに、偏狭な合理主義に固まっていた患者の心が和らぎ、新たな世界に心を開くようになり、治療がスムーズにいくようになったという。ユングは、このように因果律では説明のできない意味深い偶然の一致を多く体験・観察していた。それらを説明するために出した仮説が、共時性である。
 ユングは、1952年に物理学者パウリとの共著『自然現象と心の構造』を出した。本書の論文「共時性:非因果的連関の原理」で、ユングは、ラインが実験科学的な方法で超能力を研究した報告を引用し、テレパシー、透視、遠隔視、予知、念力等を共時性仮説で説明しようと試みた。そこでユングは、スヴェーデンボリのストックホルムの大火事の逸話について、次のように書いた。
 「例えば、ストックホルムにおいて火事が起こっているという幻視がスヴェーデンボリの内に起こったとき、その二者間に何も証明できるようなもの、あるいは考えられるようなつながりすらもないのに、その時、そこで実際に火事がいかり狂っていた。(略)彼を『絶対知識』に接近させた意識閾の低下が存在したと、われわれは想像する。ある意味で、ストックホルムにおける火事は、彼の心の内でも燃えていた。無意識の精神にとって空間と時間は相対的であるように思われる。つまり、空間はもはや空間でなく、また時間はもはや時間でないような時空連続体の中で、知識はそれ自身を見出すのである。それゆえ、無意識が、意識の方向にポテンシャルを保ち、発展させるならば、そのとき、並行事象が知覚されたり『知られ』たりすることは可能である」と。
 こうしてユングは、共時性の仮説によって、スヴェーデンボリの体験の説明を試みた。ユングは無意識の精神にとっては、空間と時間は相対的であり、空間はもはや空間でなく、また時間はもはや時間でないような時空連続体の中で、遠隔視が可能になると考えた。ユングは、共時性を「時間と空間に関して心的に条件づけられた相対性」とも定義している。また「空間と時間は、運動する諸物体の概念的な座標だが、それらは根底においてはおそらく同一なのだろう」とユングは書いている。
 ユングを受けて、空間・時間が心の状態によって条件づけられる相対的なものだと仮定すると、距離を超えた念力による遠隔操作や因果的継起を超えた予知は起こり得る現象となる。カントは感性のア・プリオリな直観形式として空間・時間を挙げたが、空間と時間が二元的なものではなく、一元的なものの表れだとすれば、特殊な能力を持つ人間においては、時空を超えた認識や行為が可能になるだろう。
 ユングは、従来の科学が原理とする時間、空間、因果性に、共時性を加えることを提案した。パウリはユングに賛同し、時間、空間をエネルギーと時空連続体に替えることを助言した。これを容れたユングは、永遠のエネルギー、時空連続体、因果性、共時性という4つの原理を提示している。

 次回に続く。

カント21~ショーペンハウアーの意志(続)

2013-09-12 08:47:23 | 人間観
●ショーペンハウアーの「意志」による仮説(続き)

 ショーペンハウアーは、カントと同じく視霊現象に強い関心を持った。主著刊行の32年後となる1851年に『視霊とこれに関連するものについての研究』という論文を発表している。本書でショーペンハウアーは、「今日では動物磁気ならびに透視が明白な事実であることを疑う者は、単に信仰がないばかりか無知であるといわれる」と述べている。動物磁気説は、当時西欧で催眠術療法が評判だった医師メスメルの唱えたもので、人体は宇宙に充満しているガスの一種である動物磁気の支配下にあり、病気は体内における磁気の不均衡から生ずるとする説である。メスメルは、霊魂は意志を持つので科学実験は成立しにくいが、動物磁気は物理学的な存在であり、適切な条件が設定できれば、操作可能であると考えた。ショーペンハウアーは、動物磁気は自己の意志が直接他者の精神や身体に働きかけることだと考えた。
 ショーペンハウアーは、「人間の内的本質」を意志とし、死後も意志は存続するものとした。一般的に言えば、霊魂の存続である。ショーペンハウアーによると、幽霊の幻視は、自然現象ならびにその法則には拘束されない物自体と結びついている。ショーペンハウアーは、次のように書いた。「空間と時間の観念性についてのカントの教説にしたがって、われわれは、知性の二形式から自由であってあらゆる現象の中でこれだけが真実であるもの、つまり物自体は、遠近や過去、現在それに未来の間の区別を知らないということを理解する」と。物自体は、人間を含む万物の本質を形成する意志であって、空間や時間の制限下に置かれていないから、これによって遠方にいる個人間の直接の作用や生者―死者間の相互作用は可能であると考えたのである。
 ショーペンハウアーは、先の論文に次のように書いている。「かつて生存した人と現に生きている人との間の区別は絶対的なものではなく、両者の中にはともに、同一の生きんとする意志が現れることをはっきりさせるべきである。これによって生存中の人は回想によって死者からの連絡として示されるもろもろの記憶を明るみに出すことができるであろう」。また「各人の意志は個体化のいかなる制限によっても妨げられることなく、したがって直接、遠方から他人の意志に作用するばかりか、他人の生体にも作用を及ぼす」とも述べた。
 こうしてショーペンハウアーは、意志という概念で無意識の領域を示唆し、予知夢、夢遊病者の知覚、霊魂との交流、テレパシー、念力等の説明を試みた。この点、カントがスヴェーデンボリの霊的交通や遠隔視に関心を示しながら、これを統一的に説明することができなかったのに対し、総合的な仮説を提示し得ている。
 私は、カントは『視霊者の夢』以降、一貫して心霊論的信条を持ち、それが批判哲学の前提となっているという見方をしている。カントにおいて、その心霊論的信条は、キリスト教の信仰に基づくものだった。物自体は認識できないとする不可知論であっても、キリスト教の信仰を持つ限り、道徳的実践は成り立つ。神、不死、自由を要請するのは実践理性だが、その根底にあるのは信仰である。定言命法も、キリスト教の敬虔な信仰集団における道徳規範である。カントの哲学はこの点、信仰による飛躍があった。飛躍なしに成り立たない哲学である。これに比し、ショーペンハウアーは、物自体を放置せずに徹底的に考究した。インド哲学を学び、キリスト教を相対化していたショーペンハウアーは、論理的思考によって一貫性を追求した。ただし、物自体は意志であるというのは、彼の直観的な理解であり、なぜ物自体が意志であるのかという点について、説明はどこにもされていない。
 ショーペンハウアーは、物自体を意志ととらえたことで、カントが斥けた独断的形而上学に逆戻りしたという批判も成り立つ。だが、万物の根源を精神性を持たない物理的な力とすれば、唯物論に陥る。「人間の内的本質」が死後も存続するという理論を立てるには、宇宙の根源的な存在は、物質と精神をそのうちに含むものと想定しなければならない。ショーペンハウアーもまた心霊論的な信条を持っていたが、彼においては、カントのようにキリスト教信仰による飛躍はあり得ない。それゆえに、ショーペンハウアーにおいては、視霊現象や超能力等の研究は非常に重要な課題であり続けた。ショーペンハウアーの視霊現象や超能力等の考察は、思弁的・空想的でなく、自らの経験と観察及び古今の豊富な記録文献に基づき、当時の医学・生理学等の知識も踏まえて、さまざまな角度から検討を行ったものである。彼の観察力は鋭敏であり、思考力は強靭である。
 ショーペンハウアーは、カント以後のドイツ観念論において特異な存在だった。ドイツ観念の主流は、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルである。彼らの観念論哲学は、キリスト教を基盤としていたが、ショーペンハウアーはインド哲学を学び、キリスト教的な人間観・世界観を相対化し得ている。ヘーゲル哲学の全盛期には不遇だったが、晩年になってから高く評価されるようになった。そして西洋における東洋思想への関心を高め、その理解を助ける役割をした。また脱キリスト教的な心霊論哲学の可能性を開き、東西の対話と相互理解を促進することにも貢献している。

 次回に続く。

カント20~ショーペンハウアーの意志

2013-09-11 10:24:55 | 人間観
●ショーペンハウアーの「意志」による仮説

 ここで補説として、カントの哲学を継承しつつ、独創的な思想を展開した哲学者のショーペンハウアーと、その影響を受けて無意識の領域の研究をした心理学者のユングについて書く。彼らはそれぞれ視霊現象や超能力に取り組み、独自の考察を行った。時代的には18世紀のカント、19世紀のショーペンハウアー、20世紀のユングということになる。ショーペンハウアーとユングについて書いた後、心霊論的人間観に係る現代の科学者の様々な仮説を紹介する。
 最初にショーペンハウアーは、幼くして欧州諸国を回り、各地で強制労働、貧困等の悲惨さを見た。それによって、ペシミズム(最悪観)の世界観を持った。プラトンのイデア説、カントの批判哲学を学んだ後、20代でインド哲学に出会って、ウパニシャッドや仏教の影響を受けた。その影響のもとに、カント哲学を独自に解釈し、発展させた。31歳にして、主著『意志と表象としての世界』(1819年)を刊行した。
 カントが物自体は認識できないとし、叡智界と同一の領域と考えたのに対し、ショーペンハウアーは物自体は意志であるとし、「世界は私の表象である」と説いた。現象として経験する一切のものは我々が生んだ表象であり、知覚に内在するア・プリオリなカテゴリーに従って生起する。知覚のカテゴリーは、時間、空間及び因果性である。因果性というのは、カントの12のカテゴリーを因果性に包含させたものである。さらに「表象は根拠律に従属する」とし、時間、空間、因果性は根拠律の三つの特殊形態であり、表象を成立させる形式とみなした。「表象としての世界」では、物自体を理性によって認識することはできない。だが、物自体はこの原理を超越しており、現象界の背後にあって自存しているとした。こうしてショーペンハウアーは、カントの物自体を意志と規定することによって、別に「意志としての世界」を構想した。
 「意志としての世界」という観点に立つと、現象とは、世界における意志の客観化であるとされる。意志は、人間のみならず動植物・無機物の中にも等しく存在する。ショーペンハウアーはここで身体に注目し、身体運動は直接的に認識される意志であり、意志の客観化であるとした。人間の意志は知性から生じたものではなく、生を意欲する衝動の中にこそある。意志とは、盲目的な「生きんとする意志」である。この「生きんとする意志」が世界全体を形成する動因である。物質・精神はともに意志の表れであり、重力、磁気、電気等の自然の諸力も、みな意志の表れである。ショーペンハウアーは、このように考え、万物の根源としての意志を「原意志」と名付け、世界とは原意志の現象、客観化であるとした。そして、衝動的な盲目の意志を否定することで、解脱に達することができるという思想を説いた。意志の否定は、原意志の否定ではなく、個人における意志の否定である。意志の否定には、他者に自己と同じ苦悩を認識することで純粋な愛が生じる「共苦(同情)」と、また自己の死さえも意志からの解放とみなす「禁欲」という二つの道があるとした。これらの道は道徳的実践であり、解脱ということから東洋人が連想する修行、例えば瞑想、ヨガ等の具体的な方法は、説かれていない。
 ここでインド哲学との関係を述べると、ショーペンハウアーは、自分の説く意志を、インドのバラモン教における最高原理、ブラフマン(梵)と同一視した。もともと一つである意志は、時間と空間の形式によって多数の個体に分離して現れる。ショーペンハウアーはこれを「個体化の原理」とし、「マーヤー(幻影)のベール」と呼んだ。この考え方は、ヴェーダーンダ哲学に通じるものである。ヴェーダーンダ哲学では、自然界の諸事象も、個体の人格的な意志やその行動も、すべて虚妄のものとし、人生の目的はブラフマンとの合一による解脱であると説く。だが、ショーペンハウアーの意志とブラフマンは同じではない。ブラフマンは非人格的な宇宙の最高原理であり、アートマン(我)という個体的原理と対をなす。アートマンは、気息を原義とし、生命や自我・霊魂を意味する。ブラフマンとアートマンは同一無差別であると説くのが、梵我一如の思想である。これに対し、ショーペンハウアーの意志は、自然の諸力や人間の意欲あるいは行動となって現れるものだから、ブラフマンとは異なる。ショーペンハウアーにはアートマンに当たるものがない。輪廻の観念もない。
 またショーペンハウアーは解脱への道を説くが、その意味は仏教の教えと異なっている。仏教では、輪廻転生を繰り返している世界から抜け出ることを解脱という。もとにあるのは、因縁生起すなわち縁起の理法である。縁起説は、キリスト教の人格神による宇宙創造説とは、相容れない。仏教の代表的な教説の一つである唯識説は、あらゆる存在や事象は心の本体である識の作用によって仮に現れたものに過ぎないとし、阿頼耶識を万物の展開の根源であり、万物発生の種子であると説く。これに対し、ショーペンハウアーは、「客観的世界は単なる脳の現象である」「我々によってア・プリオリに認識された法則は、(略)単に直観並びに悟性の形式から、つまり脳の諸機能から発生する」とし、表象を脳が生み出す現象と考えている。この場合、身体の器官としての脳が失われれば、表象は消滅することになる。その場合、表象の記憶は残存するか、どこに保持されるかという問題がある。
 西欧でウパニシャッドや大乗仏典の本格的な翻訳が出たのは、ショーペンハウアーの死後のことだった。ショーペンハウアーがインド哲学と仏教を同じようなものと理解していたのは、時代による制約が大きい。

 次回に続く。

■追記
 上記の拙稿を含む「カントの哲学と心霊論的人間観」は、下記に掲載しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11c.htm

カント19~カント哲学の心霊論的発展を

2013-09-10 08:48:50 | 人間観
●カント哲学の心霊論的発展を

 本章の結びを書く。カントは、『視霊者の夢』で、心霊論的な信条を書いたうえで、自らそして普通の人間が経験できないことはあえて語らないことにした。だが、カントは、キリスト教の信仰に基づいて、神、霊魂の不滅、霊界、霊的共同体とのつながり等を信じ、心の中ではその心霊論的信条を持ち続けた。それが彼の批判哲学、特に道徳哲学の前提となっている。実践理性による神、不死、自由の要請や、「目的の国」、道徳的な宗教、自然の目的、永遠平和、国家連合等の思想の根底には、心霊論的信条がある。カントが、キリスト教を合理化し、道徳的宗教に改善しようとしたのも、単に道徳的・世俗的な実践のためではなく、心霊論的信条を以て道徳的な実践を行うことが、来世の幸福につながるという考え方によるものである。
 三大批判書等の著作では、あからさまに言わずに、哲学的に厳密な論理で書いているので、その前提が見逃されやすい。そのうえカント以後のカント主義者は、この心霊論的な信条を排除または隠匿し、カント哲学を啓蒙主義的に合理化した。カントを理性中心、自我中心の哲学者だと単純化した。それが通説となった。カントの神と自然、歴史に関する項目で西田、和辻、ヤスパース、ドゥルーズの所論に触れたが、彼らもカントの心霊論的信条に注目していない。また哲学の立場からの心霊論の考察を行っていない。
 近代西洋人の心の深層を研究した哲学者・湯浅泰雄氏は、『ユングとヨーロッパ精神』で(人文書院)で、カントについて次のように書いている。カントによって「理性的自我意識の哲学が確立したことによって、人間性の本質から身体と情念(したがって無意識)の作用が完全に排除された」。「理性を最高の価値としたカントは、身体や情念を人間性の本質から排除するとともに、一切の霊的存在者の領域をも抹殺してしまった」と。だが、「一切の霊的存在者の領域をも抹殺してしまった」というのは、誤認である。通説に引きずられたものだろう。カントは、晩年まで霊的存在者について書いている。一切の抹殺ではなく、非キリスト教的な霊的存在者を排除したものである。キリスト教は自然崇拝を否定しており、近代化の過程で「世界の呪術からの解放」を進め、自然界における霊的存在者を意識の外へ追放した。カントは、これを徹底した。そのうえで、自然をキリスト教の神が人間の歴史に関与する際の代理者としたのである。
 カントの道徳観を、私の理解で言い換えれば、普通人には体験することのできない霊魂や霊界への関心に深入りし、現実の生活が疎かになってはいけない。現世においては、大地に足を踏まえて、身体的生命を生きよ。現実の社会での責務を果たせ。時が来れば、魂は死とともに来世に赴く。来世の存在を信じつつ、現世でなすべき務めを果たせ。来世がどうなるかは現世で何をなしたかの結果であって、いまこの人生を精一杯生きよ。現世で道徳的に生きてこそ、来世での幸福が得られる、ということになる。
 これは、現世肯定的かつ来世肯定的で因果応報的な道徳観である。キリスト教的ではあるが、イエスの教えが、現世否定的で来世志向的であるのとは、異なっている。カントは、現世肯定的かつ来世肯定的なプロテスタンティズムの考え方に立っている。ただし、カルヴァンの救霊予定説とはまったく違う。救霊予定説は、神を絶対化し、死後救われるかどうかは予め神の意思によって決められており、人間の行いは神の意思に一切影響することができない。道徳的な因果律を否定する。予め救われるように神に選ばれている人間と、選ばれていない人間には、絶対的な差異がある。絶対的な不平等である。これに対し、カントは、現世における人間の道徳的な実践が、来世の幸福につながるという因果応報の考え方である。人間は神の前で無力な存在ではなく、自らの意思で努力し、その結果を得ることができる。来世の救済についても、機会の平等の思想を示している。なお、私の見るところ、釈迦は現世否定・来世志向でイエスに通じる。マルクスやニーチェは現世志向・来世否定である。神道や日本の大乗仏教は現世肯定・来世肯定である。カントは、この点に限っては、神道や大乗仏教に通じる。
 ただし、カントには、キリスト教の枠を出る考えは、まったくない。キリスト教の枠内で、科学と両立し、道徳化した宗教を志向した。18世紀西欧にあって、もし霊魂や霊界、霊力、奇跡を徹底的に疑えば、キリスト教を否定し、無神論、唯物論になる。フランスには、そういう思想家が多く出現した。これに対し、ユダヤ=キリスト教的な唯一絶対神を認めない心霊論もある。プラトンや仏教、ヒンズー教は、そうである。ショーペンハウアーは、その影響のもとに、独自の哲学を展開した。これに比べ、カントは、あくまでキリスト教的である。私は、カントの心霊論的な信条に基づく道徳哲学をそのようなものと理解する。
 カントの霊的共同体は、キリスト教の神のもとにおける天使、聖人の霊等の集団である。人間は、神だけでなく霊的共同体にその一員としてつながっている。そして、霊的な交流ができると考えた。ここで特徴的なのは、カントが、家族であっても死後、それぞれ別の場所に行き、場合によっては永遠に会うことがないという見方を強調していることである。死別した親子や夫婦、兄弟、祖孫が霊界では、ばらばらになる。この点で、カントは極めて個人主義的である。神道的な世界観では、霊的共同体に当たるのは、親や祖先を始めする祖霊の集団であるが、カントには祖先崇拝がない。自然崇拝とともに祖先崇拝を否定したキリスト教を基盤としているからだろう。
 私は、人間は家族的生命的な存在であると考えており、人間の霊性においても、家族的生命的なつながりが主たるものと考える。原初的な世界観を保つ神道の考え方は、心霊論的人間観に深く通じるものである。カントには、自分が家族において夫・父・子・子孫等の具体的な役割を持つ存在であるという意識が弱い。生涯独身者だったこともあってか、カントには、生命の継承や繁栄に係る義務や、祖先の祭祀を行う義務が意識されていない。道徳的一般法則を示す定言命法に、子孫繁栄や祖先祭祀が含まれていない。あまりにキリスト教的であることによって、カントの心霊論的道徳哲学は、人類に普遍的な思想となり得ない。
 カントの哲学は、物自体は理論的に認識できないとしつつ、心霊論的信条に基づいて、神、不死、自由を要請する。それゆえ、土台になっているキリスト教の信仰が揺らいだら、カントに依拠する者は、深刻な不安に陥る。理性の絶対的命令は、キリスト教の権威があってのものだから、その権威が低下すると、定言命法による道徳法則は、人々が無条件で従うべきものではなくなる。19世紀以降の西洋では、この傾向が進行している。ニーチェが指摘したニヒリズムの問題である。
 21世紀の今日においてカントの思想を発展させるとすれば、キリスト教に基づく心霊論的信条を非キリスト教文化圏に開かれたものとし、哲学と超心理学・トランスパーソナル学を結びつけることが必要だろう。その際、先に書いた万有在神論は、心霊論的人間観に基づく万有在神論とするならば、哲学と超心理学・トランスパーソナル学とがそこで結びつき得る、一つの有効な理論となるだろう。それによって、西欧発の哲学は、人類の精神科学の発達に寄与することができるだろう。

 次回に続く。

カント18~世界史のとらえ方

2013-09-09 08:49:59 | 人間観
●世界史のとらえ方

 先に歴史を導く自然という点から、カントにおける歴史観について述べた。カントの場合は、哲学的な歴史観または歴史哲学であり、実証史学の歴史観とは異なる。カントは、『世界公民的見地における一般史の構想』では、「人類の歴史を全体として考察すると、自然がその隠微な計画を遂行する過程と見なすことができる」と書き、『人類の歴史の憶測的起源』では、自然が人類をアダムとイブという起源から文化の完成、永遠の平和へと導いているという考えを述べた。『判断力批判』では、自然の一切は人間の文化のために存在するとし、文化は道徳の準備であり、自然の究極目的は道徳的な人間を出現させることだとした。そして、『永遠平和論』では、歴史を導く自然が、人類に配慮したり、強制したりして、人類に永遠平和を保証すると説いている。このようにカントの歴史観は、あくまでキリスト教の信仰に基づくものである。また西洋中心の歴史観である。カントの思考は、彼が生きた時代と彼が所属する文明に制約されている。
 実存哲学者カール・ヤスパースは、カントに「哲学すること」を学んだ哲学者の一人である。ヤスパースは、カントの誤謬や限界を指摘しており、歴史における神的な自然の導きというカントの考えにも同意していない。第2次世界大戦後に刊行された『歴史の起源と目標』で、ヤスパースは、「われわれは人類の歴史の起源と目標を知らない」と書いた。これは、カントのキリスト教的・西洋中心的な歴史観に異論を呈したものである。そして、ヤスパースは、真に世界的な世界史を描こうと試みた。
 ヤスパースによれば、歴史の起源も目標も知らない人類は、世界史に「基軸」となる時点を設定しなければ、自らの立つ地点を見定めることもできない。欧米人のキリスト教信仰は、「人類の信仰」ではない。「世界史の基軸」は、あらゆる民族にとって「歴史的自己意識の共通の枠」となるようなものでなければならない。世界史の基軸は紀元前ほぼ500年頃にあり、その時代に「今日まで私たちがそれとともに生きている人間というものが生じた」。この時代は、老子・孔子・釈迦・エリヤ・プラトン等が輩出し、人類の「精神化」が起こった。それによって、人間は「精神的に全面的に開かれた本来的人間」となった。その後、科学と技術の発達によって世界は大きく変容した。現代は、科学と技術に支配され、大衆化とニヒリズムが進行する時代である。そのために、人類は大きな問題に直面している。来るべき新しい未来の第二の基軸時代は、まだ見えないまま、遠くにある。今日、人類は、地球全体をおおう第二の基軸時代に向かう途上にあり、模索と課題の中で、日夜、呻吟している、とヤスパースは述べた。
 呻吟するヤスパースは、カントの永遠平和論を批判的に継承し、世界の将来を考察する。ヤスパースは、現代を「地球的な最終秩序への移行」の段階と考える。世界秩序が征服・支配による世界帝国として成立するか、「相互理解と契約によって成り立つ諸国家の統合による世界政治」の形で成立するかが重大な問題だとヤスパースは言う。後者の形の「世界秩序」であれば、暴力による統一ではなく、「相互の成熟した理解のうちから協議によって成立する秩序」が地上に出現する。そして、協議・多数決・少数者尊重・修正変更の果てしない過程のなかで、万人の共同権利が保障された「世界秩序」が追求されていくと説いた。そして、平和的な「世界秩序」の形成は、諸国民・諸民族・諸個人が「信仰と愛」をもって、対話と相互理解を重ねることによってのみ可能だと考えた。
 カントの永遠平和論は、真の国際平和を実現できていない今日において、無視することのできない古典である。カントの永遠平和論を何らかの仕方で継承し発展させようとする者は、カントの永遠平和論が、キリスト教の信仰に基づくものであり、また単に人間が道徳的な努力によって目指す目標ではなく、意志を持ち、人類の歴史に関与する自然の導きを前提としたものだったことに留意する必要がある。人類は未だ共通の内在的超越者を導き手と仰いで、国際的に永遠平和を堅実化する段階には至っていない。自然に関する問題は重要だが、われわれは、何より自分自身について、人間自身について知らねばならない。私は諸国民・諸民族・諸個人の「対話と相互理解」を進めるためには、まず人間とは何かを問い直し、自己認識を改め、心霊論的人間観を確立することが必要だと考える。本稿はそのような観点から、カント哲学と心霊論的人間観について書いているものである。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「ヤスパースの『新基軸時代』と日本の役割」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11b.htm
・拙稿「人類史に対する文明学の見方」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09a.htm

■追記

本項を含む拙稿「カントの哲学と心霊論的人間観」は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11c.htm

カント17~神と自然

2013-09-08 08:37:13 | 人間観
●神と自然

 カントにおける神と自然の問題をどうとらえるかという問題は、カント以後のドイツ観念論の展開において重要な論点となった。ヨーロッパには、中世から、自然を「能産的自然(natura naturans)」と「所産的自然(natura naturata)」に分けてとらえる考え方がある。12世紀にアヴェロエスが提唱したものである。15世紀のニコラウス・クザヌスは二つの自然という矛盾の一致を神において認識した。17世紀のスピノザは、世界の根源を唯一の実体たる神即自然とし、能産的自然を創造主としての神とみなした。これらの伝統的な用語をもって言うならば、カントは、理論理性が対象とする自然を所産的自然とし、人間の歴史を導く自然を能産的自然と明言的に分けてはいない。しかし、後者の自然は能産性を持っていると考えられる。
 カントにおける神と自然を一元論でとらえようとすれば、汎神論(pantheism)となる。だが、カントは、自然そのものを神とする汎神論を否定している。またスピノザの思想も、汎神論の一種として否定している。汎神論は、万有に対して、神を内在的ととらえる。カントは、神は万有に対して内在的とは説いていない。自然界の無数の個物に神が内在しているとも、説いていない。全体としての自然が、神の被造物でありながら、一個の理性的存在者のように意志を持ち、人類の歴史を導くものとしている。自然はキリスト教の神が人間の歴史に関与する際の代理者となっている。
 私の見るところ、基本的にカントの背景にあるのは、キリスト教の世界観、とりわけプロテスタント的な世界観である。その世界観のもとに、カントは、自然を被造物でありながら、意志を持ち、歴史に関与するものと考えている。キリスト教は、唯一男性神を仰ぐ一神教である。キリスト教の神は、宇宙の外に立つ宇宙の創造者である。その意味で、万有に対して超越的である。これに対し、汎神論では神は内在的であるから、両者は対照的である。カントは汎神論を否定したが、スピノザの汎神論的な哲学は、ドイツ観念論の発展に重要な影響を与えた。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルは三人三様の哲学を展開したものの、個性的な思想にとどまった。その後、19世紀の宗教哲学者K・C・F・クラウゼは、神は万有に内在するとともに超越するという万有在神論(panentheism)を唱えた。汎神論では神は内在的だが、万有在神論では神は内在的かつ超越的である。汎神論は「万有=神」であり、万有在神論は「万有⊂神」である。万有在神論は、汎神論とは異なり、神が個物に宿りつつこれを包括統一すると考える。それゆえ、万有在神論は一神教のイスラムでも認められている学説であり、人間には神性が内在するというインド思想に通じ、また自然の事物に霊性を認める多神教の説明理論ともなり得る。個物を人間的実存としての自己とすれば、万有在神論は実存哲学に新たな展開可能性を提供するものともなるだろう。
 万有在神論において、個物と一般者は相互包含的であり、一即全、全即一の無限の相互関係が生成する。ここで神とは、宇宙の根本的な法則にして力を人格化してとらえたものである。西洋においては、神を存在としたが、むしろ有無の区別を超えたもの、東洋における空と考えられる。空の概念は、西洋における存在の概念を内包する。宇宙の全体性に先立つ根源的な創造性である。1を生む0と言ってもよい。
近代日本の代表的な哲学者・西田幾多郎は、『善の研究』で主客未分の純粋経験から思索を始め、カントの近代的自我意識の立場を超え、また西洋の主語的論理を述語的論理に転換した。西田は、絶対矛盾的自己同一の場所的論理による自身の哲学を、汎神論ではなく万有在神論であると自認していた。西田哲学は、内在即超越の構造において、内在的に重点を置いた万有在神論と言える。西田哲学は大乗仏教、特に禅宗と浄土教を背景に持つ。キリスト教にも深い理解を示した西田は、絶対無を絶対の無即有とも言っている。禅宗では無を語るが、大乗仏教で主に説かれるのは、空である。一切皆空ととらえる仏教の主要な経典の一つ、華厳経は、相即相入・重重無尽の世界を象徴的に表している。宇宙の真理を体する法身仏(毘盧舎那仏 Vairocana)を神に置き換えれば、その世界観は万有在神論に通じるものである。
 「目的の国」の項目に書いた和辻哲郎は、カントの個人主義的な限界を超える倫理学の構築において、西田哲学を応用した。和辻は主著『倫理学』で個人も全体も「真相は空」であるとし、空を「絶対的全体性」と規定した。空はまた「絶対的否定性」でもある。その自己否定が個別化であり、否定の否定が自己還帰である。この「絶対的否定性が否定を通じて自己に還る運動」が倫理学の根本原理であると和辻は規定している。またこの運動を「不断の創造」とも言っている。和辻の論理を援用すれば、人間だけでなく自然もまた絶対的否定性の創造的な弁証法的自己運動の過程にある。人間は間柄的存在であり、自然は風土的存在である。その人間と自然が時間的空間的に相互作用する過程が、歴史であると言えよう。
 20世紀後半の西欧を代表する哲学者ジル・ドゥルーズは、『カントの批判哲学』で、カントの自然には、現象としての感性的自然と、その基体としての超感性的自然の二つがあるとした。この分け方を取れば、歴史を導く自然は超感性的自然になる。カントは人間が現象界と同時に叡智界にも所属するとするから、超感性的自然は自然の叡智界に属する部分になる。また感性的自然において生きる人類が、超感性的自然の導きのもとに、地上に自由を実現するという究極目的に向かって歩むのが、歴史となるだろう。ドゥルーズは、カント哲学こそ現代の哲学の枠組みを敷設したものがと認識し、その乗り越えを企図した。だが、カントの自然観・歴史観の徹底的な考察は行っていない。
 カントにおける神と自然の問題をとらえるには、哲学だけでなく、心理学・人類学・文明学・生態学等の観点を加える必要がある。認識能力の検討の項目に、カントは、深層心理学的に見ると、理性を中心として、心をほぼ意識に限定し、無意識の領域を論議の対象から除外したと書いた。ユダヤ教は偶像崇拝を禁止し、自然崇拝を否定した。ユダヤ教から出現したキリスト教は、ヨーロッパに伝播し、ゲルマン民族の自然崇拝を駆逐した。さらに近代化の過程で「世界の呪術からの解放」を進め、自然界における霊的存在者を意識の外へ追放した。プロテスタンティズムは、宗教の合理化を進め、「呪術からの解放」を加速した。カントは哲学の分野で、「呪術の追放」を徹底した。それゆえ、カントの自然は、近代化の進行以前、人類が広く持っていたアニミスム的な要素が消滅した自然である。カントは、こうした自然をキリスト教の神が人間の歴史に関与する際の代理者とした。カントの世界は、自然界の体系の頂点に、自然の導きによって文化を生み出し、さらに道徳を実践する人間が立っている。その自然は、同時に、近代西洋文明が人間が支配し、利用すべきものとした自然でもある。今日、人類は、人類と自然の関係を深く反省し、文明の大きな転換を必要としている。カントの自然概念の限界を超えて、人類の道徳と文明の転換について考える時、拙稿「心の近代化と新しい精神科学の興隆」第3章に書いたディープ・エコロジーやトランスパーソナル・エコロジーの取り組みは注目すべきものである。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「心の近代化と新しい精神科学の興隆」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09b.htm

人権60~国家的な権力

2013-09-07 08:41:40 | 人権
●国家的な権力

 国家的な権力は、その国家の内部または他の国家との関係において、国家の維持・繁栄を実現するために、領域と人民を統治する権力である。国家権力は家族的権力、社会的権力をそのうちに含む。国家権力は政治的権力がもっとも発達したものである。そして、他の国家権力と相互関係にあり、相互作用を行う。
 国家は、政治的な集団である。ウェーバーのいう政治団体の一つであり、政治団体の下位概念である。ウェーバーは、国家は政治団体として、「秩序の保証のために暴力行為を使用する(少なくとも併用する)」という事実のほかに、「或る地域に対する行政スタッフ及び秩序の支配を要求し、これを暴力行為によって保証する」という特徴を持つとする。この「或る地域」とは、国家の領土であり、領海・領空を含めた広い概念で言えば、領域である。
 萱野氏によれば、政治団体は「秩序と支配を保証するために」「暴力」を手段として用いる。その政治団体のあるものが、「合法的な暴力行使の独占を実効的に要求する」ようになるとき、「国家が成立」する。言い換えれば、政治的権力を持つ集団が、合法的な実力行使の独占を実効的に要求するようになるとき、国家が成立するというわけである。
 近代西欧の国家は、国王またはその政府が一定の領域内で実力を独占し、実力の行使を合法化し、他の政治団体の実力行使を非合法化した。西欧の絶対主義国家を典型とする専制的な君主国家では、統治権者は国王である。近代国家が形成される過程で、初期には国王が個人として王権を主張した。国王個人の権利が国家の権利と一致していた。その権利は、国王が神から授かったものと主張され、絶対的・専制的な性格を持っていた。国王は、領域における主権すなわち最高統治権を持つに至った。これに対し、貴族や新興階級が国王から権利を守るために抵抗し、王権を制限するとともに、自分たちの権利を確保し拡大してきた。国民が広く政治に参加するようになった国家、すなわち国民国家においては、国家の統治機関である政府が、集団としての国家の権利を行使する。
 デモクラシー(民衆参政制度)が発達した君主制または共和制の国家では、統治権者は国民・人民・議会等に存するとされる。その場合、実際に統治権を行使するのは、政府である。国家の統治機関である政府は、自ら権利を行使する主体であると同時に、国民に権利を保障する主体でもある。政府は国内の諸集団や諸個人との間で、互いに権利の主体―対象として関わり合う。また、他国の政府との間でも、互いに権利の主体―対象として関わり合う。こうした国家における統治権を力の観念でとらえたものが、国家的な権力である。
 人権の思想は、国家権力からの自由を確保し、伝統的な権利を維持しようとする運動の中で発生した。最初は先祖伝来の古くからの権利という観念から、普遍的・生得的な権利という観念が発生した。国王が王権を神に授けられたものとする王権神授説を説くのに対し、人民の自由と権利は神から与えられたものとする天賦人権論で対抗した。政府に対して人民の権利を守り、獲得し、拡大する動きは、国家権力に対して人民の権力を獲得しようとするものとなった。
 ここで国家権力から権利を守るため権力の介入を規制する思想・運動が現れた。それが、リベラリズム(自由主義)である。またさらに権利を獲得・拡大するため、民衆が政治参加を求める思想・運動が現れた。それが、デモクラシーである。これらリベラリズムとデモクラシーという全く別のものが、結合したところにリベラル・デモクラシーが成立した。リベラル・デモクラシーは、自由権の確保と参政権の拡大が結合したものである。そして国家権力に対抗しつつ、集団及び個人の権利を確保・拡大してきた思想・運動である。
 リベラリズム、デモクラシーとしばしば結びつきながら、近代西欧社会に登場したものに、ナショナリズムがある。ナショナリズムは、文化的単位と政治的な単位の一致をめざす思想・運動である。文化的な集団が政治的な集団でもあろうとし、政治的または国家的な権力を獲得し拡大しようとするものである。ナショナリズムは、他民族の支配に抵抗し、独立や解放を目指す集団の動きである。そこにおいて形成される権力は、人民の力の合成であり、新たな共同体の力である。独立や解放は統治権の奪取であり、自己決定権の獲得である。人民の力の結集で政治的または国家的な権力を獲得する。その獲得された権力のもとに、集団の権利が拡大され、成員個人に権利が付与され、また拡大される。ナショナリズムもまた権力との関係で人権の意識を発達させてきた。
 国家については次章で改めて論じる。ここでは、近代西欧国家における人権と権力の関係に触れるにとどめたい。

●権力の諸形態と政治の関係

 ここで権力の諸形態と政治の関係について、まとめておきたい。権力は権利の相互作用を力の観念でとらえたものである。権力は、社会の様々な集団で発生し、機能する。家族をはじめ氏族・部族・組合・団体・社団等の集団で、それぞれの権力が発生し、機能する。
 権力の最小規模は、集団の最小規模である家族における権力、すなわち家族的な権力である。権力は、家族的な権力を基礎とする。家族的権力が発達して社会的権力となる。社会的権力の一部は政治的権力となる。権力の最大規模は、集団の最大規模である国家における権力、すなわち国家的な権力である。政治的な権力が発達したものが国家的な権力となる。
 家族的権力は、家族の内部または他の家族との関係において、家族の維持・繁栄を実現するために、家族員を保護・指導し、財産を管理・運用する権力である。
 社会的権力は、ある社会的な集団の内部または他の社会的な集団との関係において、その集団の維持・繁栄を実現するために、集団の成員を統括し、また財産を運営する権力である。
 社会的な権力のうちには、氏族的・部族的な権力と組合・団体・社団的な権力がある。またこれらの諸権力は、政治的な権力に発展する場合がある。集団は、対外的に集団としての権利を確保・獲得・行使するために、実力を組織し、一定の領域を統治するようになることがある。この時、その集団は、政治的な集団と化す。政治とは、集団における秩序の形成と解体をめぐる相互的・協同的な行為である。とりわけ権力の獲得と行使に係る現象をいう。
 家族は、秩序と支配を守るために、親が子、夫が妻、兄が弟等に暴力を振るったり、家族員が一定の領域を他の家族員に対して排他的に占有したりしても、政治的な集団とはいえない。家族の関係は親子・夫婦・祖孫等の私的な関係であって、それを超えた公的な関係ではないからである。政治は、集団において公共性のある事柄について意思を決定し、その実現を図る行為である。それゆえ、政治的な集団と言い得るのは、複数の家族の集団である氏族からである。
 氏族・部族・組合・団体・社団等の集団のうち、物理的実力を組織し、一定の領域を統治するものを、政治的な集団という。政治的な集団は、政治的な権力を得ようとする集団または政治的権力を持つ集団である。
 政治的な集団の持つ社会的権力は、同時に政治的権力となる。政治的権力は、政治的な行為によって形成される社会的な権力とも言える。政治的権力は、もともと協同的に行使されるものであるが、社会的な権力が闘争的に行使される集団においては、政治的権力は闘争的に行使されるものとなる。
 政治的な権力が国家に係るものとなったものを、国家的な権力という。国家的権力は、その国家の内部または他の国家との関係において、国家の維持・繁栄を実現するために、領域と人民を統治する権力である。国家権力は政治的権力がもっとも発達したものである。そして、他の国家権力と相互関係にあり、相互作用を行う。国家権力は、その中に社会的な権力を含み、社会的な権力は、その中に家族的な権力を含む。国家的権力は家族的権力、社会的権力を基礎とし、それに支えらえている。またこれを規制したり、保護したりもするという構造となっている。

 次回に続く。