最終回。
●結びに~心霊論的人間観の確立を
私のいうところの心霊論的人間観では、死は無機物に戻るのではなく、別の世界に移るための転回点であると考える。身体は自然に返る。しかし、霊魂は、死の時点で身体から離れ、死後の世界に移っていく。死の時に近づいた人間には、来世への移行または別の生への再生に備える一種の本能が働くと考えられる。
現世では、健康な人には通常、霊は見えない。現実的な生活をするのに、視霊の能力は必要がない。霊が見えるという体質の人がいるが、真に健康な状態になると、不要なものは見えなくなる。超能力や霊能を持つ人間は、かえってそれがゆえに、負の作用をする霊的エネルギーを受けて、健康を害したり、人格を統合できなくなったりする場合がある、と私は考える。
死後霊魂が永遠不死であることは、有限の人間には証明できない。だが一神教であれ、多神教であれ、無神論であれ、多くの人々は死後の霊魂の存続を信じ、来世の存在を期待してきた。生死を一回きりのものと考える単生説と、生死を幾度か繰り返すという多生説がある。後者の場合、人間は人間としてのみ輪廻転生すると考えるか、人間に限らず動物を含む他の生命体にも再生すると考えるかの違いがある。いずれにしても、死後の霊魂の存続を信じ、来世の存在を期待することは可能である。
心霊論的に見た人間の成長と変化は、蚕における「蚕―サナギー成虫」の成長と変化に例えることができる。この世における人間の生活は、蚕の段階に当たる。人間は、この世界に生まれ、成長し、活動を行い、やがて死ぬ。息を引き取った後、しばらくの期間における遺体は、サナギの段階に当たる。そして、蚕がサナギから抜け出て、成虫となって飛び立つように、人間の霊魂は次の段階に移っていく。蚕には、成虫の世界は分からない。これと同様に、現世の人間には、来世の存在は分からない。寿命が尽きたとき、初めて次の段階に入る。蚕の段階にある人間が、来世に関心を寄せても、時が来なければ、真相はわからない。自ら経験できる段階になった時に、初めて経験できるようになる。蚕は蚕として成長・活動していけば、やがて時が来て、サナギになり、成虫になる。人間も現世においては、現世において成長・活動することに専念していけば、やがて時が来て、次の段階に移り、その段階でなければ経験できないことを経験するようになる。人間が体験できる死の際の最高の現象が、死後硬直なく、体温冷めず、死臭・死斑のない「大安楽往生(崇高な転生)」(註)である。今後、世界の科学者・医学者が大安楽往生現象を研究するならば、人間の真相が知られるようになるだろう。
カントは、『視霊者の夢』に、次のように書いた。「人間の魂は、この世に生きている時でも、霊界のすべての非物質的存在と解きがたく結ばれた共同体の中にあること、さらに、人間の魂は、交互に霊界内に作用し、霊界からも印象を受けているのだが、すべてが調子よくいっている時は、魂は人間としては意識されていないということは、大学の講義流に言えば、すでに証明されたも同然か、あるいは、もっとつまびらかに研究すれば容易に証明されることとされるだろう。いっそう巧みに表現すれば、どこで、いつということは、私にも分からないけれども、きっと将来、証明されることになるであろう」と。
カントがこのように書いてから約250年がたった。未だカントが抱いた将来の証明への期待は、現実のものとなっていない。テレパシー、透視、遠隔視、予知、念力等について、欧米の諸大学・研究所で研究が続けられているが、依然として科学者の間では超能力について、有無自体さえコンセンサスが得られていない。まして幽体離脱、霊界通信等、霊魂や霊界については、実験による検証はさらに困難である。安易に論じると、カントが批判した独断的形而上学者と同じ道に迷い込む。幽体離脱、霊的交通については、まだしも証言の事実関係を確認する方法が取れるが、スヴェーデンボリが書いたような霊界訪問記の類になると、事実か創作か、体験的要素があるのかすべて幻覚か、未だ検証はほぼ不可能であるのが、現代科学の段階である。
カントの時代以降、人類はカントが基礎づけた自然科学の発達によって、物質的には大いに進歩した。物質的世界に関する知識や、物質的素材を利用する技術は、急速に発達した。しかし、意識の、特に理性や知性の働きばかりが伸長して、人間の徳性や霊性はかえって退歩している。近代物質科学の発達が極めて急速だったために、人間の精神面がそれについて来られなかった。
だが、20世紀末から、人類は、新たな霊性の発達の段階を迎えている。ユングを継承したトランスパーソナル学は、無意識の一面には霊的次元があることを認め、霊性を含めて、人間の心を全体的に理解しようとしている。そして、人間を単に現世的な生物的存在としてではなく、現世と来世、彼岸と此岸、見える世界と見えない世界の両方にまたがって生きる霊的存在と理解し、人間の全体性をとらえようとしている。それと同時に、科学と宗教の総合が実現されつつある。それによって、近代の世界観・自然観・人間観は、大きく転換しつつある。この動きを加速しなればならない。そして、物質文化と精神文化が調和した物心調和の文明を建設しなければ、人類は自ら生み出した物質科学の産物によって、自滅しかねないところに来ている。この危機を避け、地球に共存共栄の世界を実現するには、霊性の実在を踏まえた精神的・道徳的な向上を目指す必要がある。
カントが構築した心霊論的信条に基づく道徳哲学は、こうした観点から再評価されるべきものと思う。そして、カント以降の科学・哲学・心理学・超心理学等の展開を踏まえて、この21世紀に心霊論的人間観を確立し、人類の精神的・道徳的な向上を促進すべきと思う。(了)
註
・大安楽往生(崇高な転生)については、下記をご参照ください。
http://www.srk.info/library/tensei.html
●結びに~心霊論的人間観の確立を
私のいうところの心霊論的人間観では、死は無機物に戻るのではなく、別の世界に移るための転回点であると考える。身体は自然に返る。しかし、霊魂は、死の時点で身体から離れ、死後の世界に移っていく。死の時に近づいた人間には、来世への移行または別の生への再生に備える一種の本能が働くと考えられる。
現世では、健康な人には通常、霊は見えない。現実的な生活をするのに、視霊の能力は必要がない。霊が見えるという体質の人がいるが、真に健康な状態になると、不要なものは見えなくなる。超能力や霊能を持つ人間は、かえってそれがゆえに、負の作用をする霊的エネルギーを受けて、健康を害したり、人格を統合できなくなったりする場合がある、と私は考える。
死後霊魂が永遠不死であることは、有限の人間には証明できない。だが一神教であれ、多神教であれ、無神論であれ、多くの人々は死後の霊魂の存続を信じ、来世の存在を期待してきた。生死を一回きりのものと考える単生説と、生死を幾度か繰り返すという多生説がある。後者の場合、人間は人間としてのみ輪廻転生すると考えるか、人間に限らず動物を含む他の生命体にも再生すると考えるかの違いがある。いずれにしても、死後の霊魂の存続を信じ、来世の存在を期待することは可能である。
心霊論的に見た人間の成長と変化は、蚕における「蚕―サナギー成虫」の成長と変化に例えることができる。この世における人間の生活は、蚕の段階に当たる。人間は、この世界に生まれ、成長し、活動を行い、やがて死ぬ。息を引き取った後、しばらくの期間における遺体は、サナギの段階に当たる。そして、蚕がサナギから抜け出て、成虫となって飛び立つように、人間の霊魂は次の段階に移っていく。蚕には、成虫の世界は分からない。これと同様に、現世の人間には、来世の存在は分からない。寿命が尽きたとき、初めて次の段階に入る。蚕の段階にある人間が、来世に関心を寄せても、時が来なければ、真相はわからない。自ら経験できる段階になった時に、初めて経験できるようになる。蚕は蚕として成長・活動していけば、やがて時が来て、サナギになり、成虫になる。人間も現世においては、現世において成長・活動することに専念していけば、やがて時が来て、次の段階に移り、その段階でなければ経験できないことを経験するようになる。人間が体験できる死の際の最高の現象が、死後硬直なく、体温冷めず、死臭・死斑のない「大安楽往生(崇高な転生)」(註)である。今後、世界の科学者・医学者が大安楽往生現象を研究するならば、人間の真相が知られるようになるだろう。
カントは、『視霊者の夢』に、次のように書いた。「人間の魂は、この世に生きている時でも、霊界のすべての非物質的存在と解きがたく結ばれた共同体の中にあること、さらに、人間の魂は、交互に霊界内に作用し、霊界からも印象を受けているのだが、すべてが調子よくいっている時は、魂は人間としては意識されていないということは、大学の講義流に言えば、すでに証明されたも同然か、あるいは、もっとつまびらかに研究すれば容易に証明されることとされるだろう。いっそう巧みに表現すれば、どこで、いつということは、私にも分からないけれども、きっと将来、証明されることになるであろう」と。
カントがこのように書いてから約250年がたった。未だカントが抱いた将来の証明への期待は、現実のものとなっていない。テレパシー、透視、遠隔視、予知、念力等について、欧米の諸大学・研究所で研究が続けられているが、依然として科学者の間では超能力について、有無自体さえコンセンサスが得られていない。まして幽体離脱、霊界通信等、霊魂や霊界については、実験による検証はさらに困難である。安易に論じると、カントが批判した独断的形而上学者と同じ道に迷い込む。幽体離脱、霊的交通については、まだしも証言の事実関係を確認する方法が取れるが、スヴェーデンボリが書いたような霊界訪問記の類になると、事実か創作か、体験的要素があるのかすべて幻覚か、未だ検証はほぼ不可能であるのが、現代科学の段階である。
カントの時代以降、人類はカントが基礎づけた自然科学の発達によって、物質的には大いに進歩した。物質的世界に関する知識や、物質的素材を利用する技術は、急速に発達した。しかし、意識の、特に理性や知性の働きばかりが伸長して、人間の徳性や霊性はかえって退歩している。近代物質科学の発達が極めて急速だったために、人間の精神面がそれについて来られなかった。
だが、20世紀末から、人類は、新たな霊性の発達の段階を迎えている。ユングを継承したトランスパーソナル学は、無意識の一面には霊的次元があることを認め、霊性を含めて、人間の心を全体的に理解しようとしている。そして、人間を単に現世的な生物的存在としてではなく、現世と来世、彼岸と此岸、見える世界と見えない世界の両方にまたがって生きる霊的存在と理解し、人間の全体性をとらえようとしている。それと同時に、科学と宗教の総合が実現されつつある。それによって、近代の世界観・自然観・人間観は、大きく転換しつつある。この動きを加速しなればならない。そして、物質文化と精神文化が調和した物心調和の文明を建設しなければ、人類は自ら生み出した物質科学の産物によって、自滅しかねないところに来ている。この危機を避け、地球に共存共栄の世界を実現するには、霊性の実在を踏まえた精神的・道徳的な向上を目指す必要がある。
カントが構築した心霊論的信条に基づく道徳哲学は、こうした観点から再評価されるべきものと思う。そして、カント以降の科学・哲学・心理学・超心理学等の展開を踏まえて、この21世紀に心霊論的人間観を確立し、人類の精神的・道徳的な向上を促進すべきと思う。(了)
註
・大安楽往生(崇高な転生)については、下記をご参照ください。
http://www.srk.info/library/tensei.html