ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

現代の眺望と人類の課題79

2008-12-12 08:55:15 | 歴史
●かつてないほどCFR会員を多用したニクソン

 1968年(昭和43年)の大統領選挙では、共和党のリチャード・ニクソンが当選した。ニクソンもCFRの会員だった。ニクソンは地方大学出身の田舎弁護士だった。ジョージ・W・ブッシュの祖父プレスコット・ブッシュがその才能を見出して政界に送り、アイゼンハワーの副大統領にした。
 ニクソンは、1960年(昭和35年)の選挙では、新人のケネディに敗れた。その後、ニクソンは、ネルソン・ロックフェラーに会った。ネルソンは、一族には珍しく共和党員で、当時はニューヨーク州知事だった。ニクソンは、ネルソンの個人弁護士の法律事務所に入り、ロックフェラー家との関係を深めていった。

 ネルソンは、早くから自分が大統領となることを目指していた。ルーズベルト政権以来、政府中枢に預かっていたが、大統領を目指すため、いったんニューヨーク州知事を務め、いよいよ1968年(昭和43年)の大統領選で共和党の大統領候補指名選に立候補した。しかし、共和党内の反発が強く、そのうえ再婚問題で婦人層の嫌悪を買った。ネルソンは、遂に野望を断念し、ニクソンを大統領にして、背後から指令する方針に切り替えた。
 ニクソンは、ロックフェラー家の支持を得るため、共和党綱領委員会が作った綱領を反故にし、ネルソンが出した条件をすべて了承した。68年の選挙でニクソンが大統領に当選できたのは、ロックフェラー家の力によるものだった。

 就任後、ニクソンは、それまでの政権以上に多い、115名ものCFR会員を起用した。なかでもヘンリー・キッシンジャーを国家安全保障担当補佐官に任命したことは、重要である。この任命は、ネルソンの熱心な推薦によるものだった。
 キッシンジャーは、ネルソンの外交問題首席顧問をしていた。ネルソンは、子飼いの人材をニクソンの脇につけたわけである。ニクソンは、ベトナム戦争終結への動き、米中国交の実現、米ソ貿易の拡大等、国際的に目覚しい外交を展開した。そのほとんどは、キッシンジャーの忍者外交によるものだった。
 ニクソン政権の時代、1970年(昭和45年)にデヴィッド・ロックフェラーがCFRの理事長となった。これによって、デヴィッドが本格的に自らの意思を実現する時代が始まる。CFR理事長は、85年(60年)まで続けた。自ら理事長となったCFRを通じて、デヴィッドは国際政治と世界経済に強い影響力を及ぼしていく。

●ウォーターゲイト事件で、ネルソン・ロックフェラーが副大統領に

 ニクソンは、ウォーターゲイト事件によって失脚した。1972年(昭和47年)、ニクソンの選挙運動員が、ウォーターゲイト・ホテルにある民主党本部に、盗聴器を設置しようとしたことが発覚したのである。事件の全容は、なお解明されていないが、盗聴器を仕掛けた運動員の行動がなんとも間抜けだった。最初から盗聴が暴露されて、ニクソンが窮地に陥るように仕組んだ事件だと疑われている。
 ニクソンは、自分の肉声の録音テープが公開されて、窮地に陥った。テープは、ホワイトハウスに内部関係者を監視する盗聴システムで録音されたものだった。そのようなテープが、なぜ漏洩したのか。管理責任者であったアレクサンダー・ヘイグの関与が濃厚である。ヘイグはCFRの会員であり、ロックフェラー家に忠実なキッシンジャーの右腕としてニクソン政権に入り、首席補佐官から国務長官となった。ニクソンは、最後は自ら隠ぺい工作をしたことを認めて、74年(49年)に大統領を辞任した。
 それゆえ、ニクソンの失脚は、ネルソン・ロックフェラーとの関係が主たる原因と考えられる。ニクソンの副大統領アグニューは、汚職の容疑で辞任した。ニクソンは、後任にフォードを任命した。これが、ネルソンの怒りを買ったのだろう。そしてキッシンジャー、ヘイグらによるニクソン外しが画策されたと考えられる。

 ニクソンの辞任後、副大統領のジェラルド・フォードが大統領に昇格した。フォードは、ウォーターゲイト事件におけるニクソンの犯罪に関し、大統領特赦を与えた。これで事件の幕引きを行ったことが、国民の不評を買った。もし事件の真相究明を続けたならば、政府中枢での画策が明るみに出て、政権は危機に瀕しただろう。
 大統領に昇格したフォードは、ネルソン・ロックフェラーを副大統領に任命した。若き日から大統領の椅子を目指してきたネルソンは、副大統領となったことにより、政権の内部で影響力を振るった。
 フォード政権には、国務長官のキッシンジャーを始め、前政権に引き続き要職にあるCFR会員が多くいた。政府内のネルソンとCFR理事長のデヴィッド、二人のロックフェラー兄弟が、内と外から豊富な資金とCFRの人材を使って、アメリカ政治を牛耳る体制が出来たわけである。ただし、ロックフェラー家があまりにも大きな権力を持つことへの反発も強まった。一部の議員や学者、独立系のジャーナリスト、草の根の運動家たちが、自由とデモクラシーを守るための運動を続けていった。

 次回に続く。