●如来蔵または仏性の思想(続き)
・仏性
如来蔵とよく似た概念に、仏性がある。仏性は、サンスクリット語のブッダ・ダートゥの漢訳である。衆生に備わっている仏と同じ本性、または仏となるべき因を意味する。衆生が仏陀の教えを学び、その教えを実践することによって、悟りに達することができるのは、そうなり得る可能性がもともと内在しているからであり、その可能性が仏性である。この意味において、仏性は如来蔵と同じである。ただし、仏性には、如来蔵と違って、胎児が成長するイメージや煩悩によって覆い隠されているという意味はない。
仏性思想は、『涅槃経』が『如来蔵経』の如来蔵思想を継承して、「一切衆生悉有仏性」すなわちすべての衆生はことごとく仏性を有すると記したことに始まる。もっとも一切衆生とは言うものの、『涅槃経』は、謗法不信の徒については、仏性を認めていない。そこで、仏性を有する者の範囲に関する議論が起こった。古代インドでは、人間が本来持っている性質を種姓(ゴートラ)とし、これを家系・家柄・血統によるものとした。その考えが仏教の教団にも影響し、仏性について「仏陀の種姓(ブッダ・ゴートラ)」が説かれた。唯識派では、声聞種姓・独覚種姓・菩薩種姓・不定種姓・無性有情の五つに分類し、大乗仏教の修行を行う菩薩種姓と、小乗から大乗に転向した不定種姓は成仏できるが、小乗の種姓と無仏性のものは成仏できないと主張した。これに対し、如来蔵思想は、すべての衆生に如来となり得る可能性があると主張し、その根拠として『法華経』の一乗思想を挙げた。
この論争は、シナ・日本でも続いた。唯識法相宗は、先天的な本性の違いによって、衆生を菩薩定性、独覚定性、声聞定性、三乗不定性、無性有情の五種に分けた。これを五性各別説という。一番目から三番目までは成仏が可能だが、四番目はそれが決まっておらず、五番目は永遠に成仏できないとする。この説をもとに、一部の者は成仏不可能とする一分不成説を主張した。これに対し、天台宗・華厳宗はすべての衆生に仏性があり成仏し得るという一切皆成(かいじょう)説を主張して対立した。論争の結果、前者が優勢となった。日本では、神道的な世界観のもと、有情としての生物だけでなく無生物を含む「草木国土悉皆成仏」が仏教の宗派・思潮の大半に共通する思想となっている。
●大乗的無我説の帰結
これまで書いたように、大乗仏教の主要な思想となった空の思想と唯識説は、アートマン(我)として認識の主体を認めずに、それに替わるものを打ち立てる複雑で高度な理論を展開した。だが、輪廻転生する主体としての霊魂の存在を認めないならば、解脱を目指す主体もないことになる。もしそうであれば、厳しい戒律を守り、修行に打ち込んで解脱を目指す必要はなくなり、ありのままの心と世俗的な生き方をそのまま肯定してよいことになる。後代の大乗仏教には、欲望に満ちた心は本来悟りの心だとし、煩悩即涅槃と説く思想が現れた。大乗的な無我説は、本来の釈迦の教えとは正反対の思想にも転じ得るのである。(註 2)
ところで、大乗仏教は、法身仏という一種の神格を立て、釈迦を法身仏の化身とらえるようになった。それによって無神教から有神教化への根本的な変化が促進された。これは、重大な、そして決定的な変化である。根本的に有神教化した教えの中では、アートマン(我)を否定しようとしても、否定しきれない。そのため、自己の中に如来の胎児(如来蔵)が潜在するとか、衆生にはもともと仏性が備わっているという主張が現れた。この主張は、仏・如来を神、仏性を神性という言葉に置き換えれば、一種の汎神論となる。いわば汎仏論である。
大乗仏教が宇宙を仏の本体と見るようになったのは、仏を実体ととらえたのと同然である。その場合は自己も実体性を持つことになる。そうなると、超越的かつ内在的な対象を仏と呼ぶか、神と呼ぶかの違いとなる。大乗仏教はヒンドゥー教と基本的に構造が同じになったため、より深くヒンドゥー教の影響を受けることになった。むしろ積極的にヒンドゥー教の要素を摂取しさえした。インド仏教がやがて密教化していったのは、必然の展開と見ることができる。
註
(2) 日本では、仏教徒の中に、個我の輪廻転生より先祖から子孫への生命の連続を重んじる考えが広く見られる。これは、固有の宗教である神道の伝統による。神道では、世代間の生命と因縁の継承を重視する。その立場から、そもそも輪廻転生の観念そのものが存在と生命の実態をとらえたものではなく、架空の観念ではないかという疑問が向けられる。大乗的無我説は、この疑問を完全に否定することはできない。輪廻転生については、客観的な事実や経験による裏づけを示すことが極めて困難だからである。
仏教から輪廻転生の観念を除き、輪廻の世界からの解脱という目標を掲げないとすれば、仏教は欲望を抑え、物事へのとらわれを捨て、理性的で道徳的な生き方をする哲学となる。
次回に続く。
************* 著書のご案内 ****************
『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
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・仏性
如来蔵とよく似た概念に、仏性がある。仏性は、サンスクリット語のブッダ・ダートゥの漢訳である。衆生に備わっている仏と同じ本性、または仏となるべき因を意味する。衆生が仏陀の教えを学び、その教えを実践することによって、悟りに達することができるのは、そうなり得る可能性がもともと内在しているからであり、その可能性が仏性である。この意味において、仏性は如来蔵と同じである。ただし、仏性には、如来蔵と違って、胎児が成長するイメージや煩悩によって覆い隠されているという意味はない。
仏性思想は、『涅槃経』が『如来蔵経』の如来蔵思想を継承して、「一切衆生悉有仏性」すなわちすべての衆生はことごとく仏性を有すると記したことに始まる。もっとも一切衆生とは言うものの、『涅槃経』は、謗法不信の徒については、仏性を認めていない。そこで、仏性を有する者の範囲に関する議論が起こった。古代インドでは、人間が本来持っている性質を種姓(ゴートラ)とし、これを家系・家柄・血統によるものとした。その考えが仏教の教団にも影響し、仏性について「仏陀の種姓(ブッダ・ゴートラ)」が説かれた。唯識派では、声聞種姓・独覚種姓・菩薩種姓・不定種姓・無性有情の五つに分類し、大乗仏教の修行を行う菩薩種姓と、小乗から大乗に転向した不定種姓は成仏できるが、小乗の種姓と無仏性のものは成仏できないと主張した。これに対し、如来蔵思想は、すべての衆生に如来となり得る可能性があると主張し、その根拠として『法華経』の一乗思想を挙げた。
この論争は、シナ・日本でも続いた。唯識法相宗は、先天的な本性の違いによって、衆生を菩薩定性、独覚定性、声聞定性、三乗不定性、無性有情の五種に分けた。これを五性各別説という。一番目から三番目までは成仏が可能だが、四番目はそれが決まっておらず、五番目は永遠に成仏できないとする。この説をもとに、一部の者は成仏不可能とする一分不成説を主張した。これに対し、天台宗・華厳宗はすべての衆生に仏性があり成仏し得るという一切皆成(かいじょう)説を主張して対立した。論争の結果、前者が優勢となった。日本では、神道的な世界観のもと、有情としての生物だけでなく無生物を含む「草木国土悉皆成仏」が仏教の宗派・思潮の大半に共通する思想となっている。
●大乗的無我説の帰結
これまで書いたように、大乗仏教の主要な思想となった空の思想と唯識説は、アートマン(我)として認識の主体を認めずに、それに替わるものを打ち立てる複雑で高度な理論を展開した。だが、輪廻転生する主体としての霊魂の存在を認めないならば、解脱を目指す主体もないことになる。もしそうであれば、厳しい戒律を守り、修行に打ち込んで解脱を目指す必要はなくなり、ありのままの心と世俗的な生き方をそのまま肯定してよいことになる。後代の大乗仏教には、欲望に満ちた心は本来悟りの心だとし、煩悩即涅槃と説く思想が現れた。大乗的な無我説は、本来の釈迦の教えとは正反対の思想にも転じ得るのである。(註 2)
ところで、大乗仏教は、法身仏という一種の神格を立て、釈迦を法身仏の化身とらえるようになった。それによって無神教から有神教化への根本的な変化が促進された。これは、重大な、そして決定的な変化である。根本的に有神教化した教えの中では、アートマン(我)を否定しようとしても、否定しきれない。そのため、自己の中に如来の胎児(如来蔵)が潜在するとか、衆生にはもともと仏性が備わっているという主張が現れた。この主張は、仏・如来を神、仏性を神性という言葉に置き換えれば、一種の汎神論となる。いわば汎仏論である。
大乗仏教が宇宙を仏の本体と見るようになったのは、仏を実体ととらえたのと同然である。その場合は自己も実体性を持つことになる。そうなると、超越的かつ内在的な対象を仏と呼ぶか、神と呼ぶかの違いとなる。大乗仏教はヒンドゥー教と基本的に構造が同じになったため、より深くヒンドゥー教の影響を受けることになった。むしろ積極的にヒンドゥー教の要素を摂取しさえした。インド仏教がやがて密教化していったのは、必然の展開と見ることができる。
註
(2) 日本では、仏教徒の中に、個我の輪廻転生より先祖から子孫への生命の連続を重んじる考えが広く見られる。これは、固有の宗教である神道の伝統による。神道では、世代間の生命と因縁の継承を重視する。その立場から、そもそも輪廻転生の観念そのものが存在と生命の実態をとらえたものではなく、架空の観念ではないかという疑問が向けられる。大乗的無我説は、この疑問を完全に否定することはできない。輪廻転生については、客観的な事実や経験による裏づけを示すことが極めて困難だからである。
仏教から輪廻転生の観念を除き、輪廻の世界からの解脱という目標を掲げないとすれば、仏教は欲望を抑え、物事へのとらわれを捨て、理性的で道徳的な生き方をする哲学となる。
次回に続く。
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『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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