ほそかわ・かずひこの BLOG

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西田と和辻2~西田の「純粋経験」「無」「絶対矛盾的自己同一」

2019-11-29 09:47:28 | 心と宗教
●西田幾多郎の思想

 西田の哲学は、求道者の哲学である。彼は、常に真の自己を探求し、真理への到達を目指した。

①純粋経験が出発点

 西田は、『善の研究』で、西洋哲学と東洋思想の比較の上に立って、自身の禅体験で得たものを西洋哲学の概念と論理で表現することを試みた。本書は、第1編「純粋経験」、第2編「実在」、第3編「善」、第4編「宗教」の4編で構成されている。
 近代西洋哲学は、キリスト教文化圏で科学が発達するなか、デカルトが主観と客観、物質と精神を分ける主客二元図式と物心二元論を打ち立てたことに始まる。カントは、その枠組みのもとで、人間理性を基礎づけてその能力の限界を定め、科学と道徳を両立させる批判哲学を構築した。デカルトは物質と精神をそれぞれ独立した実体としたが、スピノザは神を唯一の実体とする汎神論的な一元論を説いた。その影響を受けたフィヒテとヘーゲルは、カントの二元論に不満を持ち、再び主客を統一する一元論の哲学を展開した。フィヒテは自我を主体とし、ヘーゲルは神を実体にして主体とした。デカルトからヘーゲルまでの系譜は、プラトン以来の観念論の諸形態である。マルクス・エンゲルスは、デモクリトス以来の唯物論の立場からこれを批判し、唯物論による一元論の哲学を打ち出した。こうして観念論と唯物論、二元論と一元論が対立する思想状況が生まれた。
 西田が西洋哲学に触れた19世紀末、アンリ・ベルクソンは、分割不可能な意識の流れを「持続」と呼び、身体と精神は持続の律動を通じて相互に関わり合うと説いて、デカルトの物心二元論を乗り越えようとした。この持続の一元論から意識・時間・自由・心身関係を考察した。また、ウィリアム・ジェイムスは、主観と客観、精神と物質の対立を超えたところに、具体的実在としての意識の流れがあると説いた。意識の流れは根源的な「純粋経験」であり、抽象的な観念や思想は、この流動する意識の流れから二次的に作り出されたものであるとした。
 西田は、こうした近代西洋哲学の課題に対して、自らの参禅体験に則り、主客が分離する以前の状態を思索の出発点とした。西田は、『善の研究』で主客未分の状態を、ウィリアム・ジェームズの用語に示唆を得て、「純粋経験」と呼ぶ。西田の純粋経験は、主客未分の、あるがままの事物の直接的な知覚をいう。西田は純粋経験が唯一の実在であると考え、それを自己の根本的立場とした。そして、純粋経験からすべてのものを説明し、純粋経験の発展の諸相としてすべてのものを見る観点から、本書で実在、善、宗教の諸問題を論じている。

②無を根本に置く

 『善の研究』は近代日本の知識人に大きな感動と影響を与えたが、本書は、西田の悪戦苦闘の始まりに過ぎなかった。西田は「純粋経験」の立場から進んで、「自覚」の考察に向かった。自覚とは、知るものと知られるものとが一体である主客未分の直観的な意識と、それを外側から眺める反省的な意識とが内的に結合され、統一された状態である。「自覚」における直観と反省を考察した西田は、西洋の「有」を根本に置いた哲学に対し、東洋の「無」を根本に置いた哲学の構築を模索した。西田における「無」は、シナの老荘思想の影響を受けた禅の思想に基づいている。また、単なる直観の哲学ではなく、直観の内容を反省によって論理的に思考し、直観と論理の統一を目指すのが、西田哲学の基本姿勢となった。
 西田の「無」を根本に置いた哲学の模索において、重要な部分を占めたのが、論理学の徹底的な検討である。
 アリストテレスの形式論理学では、個物―特殊―普遍という概念の関係が立てられる。判断は、言語によって行う。文は主語と述語からなり、「AはBである」という形式をとる。判断式における主語と述語は、特殊と普遍の関係に対応し、主語は特殊を、述語は普遍を表す。例えば、「人間は動物である」という文において、主語は特殊、述語は普遍である。また、動物を基準にすると、人間は動物より下位であり、これを類という。また生物は動物より上位であり、これを種という。このような種と類の系列において特殊と普遍の関係を分析すると、系列の最初に、主語にはなっても述語にはならないものがなければならない。それが、真の意味の個物であり、アリストテレスはこれを第一実体と呼ぶ。これに対して、類・種は第二実体とされる。
 アリストテレスは、主語が述語を有すると考え、主語の側から述語を説明する。西田は、これを「主語の論理」と呼ぶ。これに対し、ヘーゲルは、述語が主語に自己自身を限定すると考え、述語の側から主語を説明する。西田は、これを「述語の論理」と呼ぶ。ヘーゲルの絶対的観念論の弁証法は、「述語の論理」による論理学である。ヘーゲルは、述語的一般者である神を実体かつ主体とし、その弁証法的な自己運動として世界史をとらえた。西田は「述語の論理」の側に立ったうえで、ヘーゲルにおける述語的普遍即ち一般者は「有の一般者」であるとし、その底に存在の根拠としての「無の一般者」を想定した。そして、「無の一般者」の自己限定としての新たな弁証法を生み出した。それが、場所的論理による弁証法である。
 西田の哲学は、究極の普遍である「無の一般者」が自己限定することによって、様々な特殊や個物が存在するという世界観である。これは、普遍の観念を存在の根源とする観念論である。ヘーゲルの哲学がキリスト教的な絶対有の弁証法的観念論であるのに対して、西田の哲学は仏教的な絶対無の弁証法的観念論である。

③絶対矛盾的自己同一

 無の一般者とは、絶対に対象化できないものであり、これを「絶対無の一般者」という。この絶対無の一般者を、西田は「場所」ともいう。主語的な個物がそこにおいてある述語的な場所という意味である。場所といっても、現実的な空間のことではなく、意味の領域である。そして、西田は、個物は絶対無の一般者である場所の自己限定として存在するとした。また、絶対無の一般者を「神」ととらえて、神と人間の関係を「絶対矛盾的自己同一」という論理構造でとらえた。ここで神とは、キリスト教的な超越神ではなく、万有在神論的な神である。
 「絶対矛盾的自己同一」とは、絶対に矛盾し対立するものが、矛盾・対立しながら、同時に自己同一を保持していることをいう。形式論理学では、同じものが同じ関係において、同時にAかつ非Aであることはあり得ないとする。これを矛盾律という。「絶対矛盾的自己同一」は、矛盾律に反する。だが、西田は、個物と普遍に「多」と「一」という概念を組み合わせて、個物的多と普遍的一には、「一即多、多即一」の構造があると主張する。
 「一即多、多即一」とは、「一」が「一」でありつつ同時に「多」であり、「多」が「多」でありつつ同時に「一」であることを表す。事物を運動の相でとらえる弁証法の論理においては、過程的には「一」が「多」となり、「多」が「一」となる。昨日の自分と今日の自分、明日の自分は、それぞれ異なるが、同じ自分である。すなわち、「一即多、多即一」である。
 だが、西田が生み出した弁証法は、過程的な側面を持つだけでない。彼の弁証法は、絶対無の一般者の場所を想定した場所的論理の弁証法である。この場所的論理の弁証法において、「一即多、多即一」は、単に過程的でなく、同時に構造的である。構造的とは、非時間的な論理的関係をいう。集合の概念で考えれば、「多」を一つの集合ととらえるとき「一」であり、「一」の集合の要素は「多」である。こうした過程的かつ構造的な「一即多、多即一」の論理は、絶対無の一般者という絶対的次元においてのみ成立する。
 西田によれば、「絶対矛盾的自己同一」における「一即多、多即一」の「一」とは絶対無の一般者であり、「多」とはその一般者の自己限定としての個物である。ここにおいて、西田は、アリストテレスとヘーゲルをともに越えた独自の論理学を樹立した。この場所的論理学が、東洋、とりわけ仏教の「無」の思想に基づくものであることは、言うまでもない。一見、非論理的または超論理的で、直観的・象徴的と考えられてきた「無」の思想には、固有の論理が潜在していたことを、西田は初めて明らかにしたのである。

 次回に続く。

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