ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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宗教5~生と死の問題

2017-03-12 08:47:35 | 心と宗教
7.生と死の問題

 人間はいかに生きるべきか。この問いを中心として、三つの問いが、神話から宗教、哲学、科学を貫いて問われ続けている。すなわち、人間とは何か、世界はどういう構造か、実在とは何かである。これらの問いの探求は、それぞれ人間観、世界観、実在観を形成する。人間とは何かという問いの答えによって、世界観・実在観は変わる。人間が人間である以上、この問いが、探求の中心となる。
 人間とは何かという問いに対して、神話、宗教、哲学、科学は、さまざまな答えを示し、または探り続けている。いったい人生の根本問題とは何か。成長して大人になること、自分に合った伴侶を得ること、子供を産み育てること、よい死に方をすること。私はこれらに集約されると思う。そして、よい死に方をするためには、自分が生まれてきた意味・目的を知ること、生きがいのある人生を送ること、自己の本質を知ること、死後の存在について知ることが必要になる。人生の根本問題の前半は、なかば生物学的・社会学的なものである。しかし、死の問題は違う。死の問題は、哲学的であり、宗教的な問題である。
 死んで終わりなのか、死後も存在しつづけるのか。死の認識で思想は大きく二つに分かれる。死ねば終わりと考えるのを唯物論と呼び、死後も続くと考えるのを心霊論と呼ぶことにしよう。世界の諸宗教のほとんどは、心霊論に立っている。唯物論は宗教ではごく少数であり、哲学や科学で有力である。現代の科学はまだ霊の領域まで研究が進んでいないので、霊魂の存在を認めるところまでいっていないが、科学者にも祖先や近親等の霊の存在を信じる者は少なくない。
 心霊論的な宗教には、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教のような人格的唯一神による創造説や、仏教のような縁による発生説がある。死後霊魂が永遠不死であることは、有限の人間には証明できない。だが「神を立てる宗教」、有神的宗教であれ、「神を立てない宗教」、無神的宗教であれ、多くの宗教で、人々は死後の霊魂の存続を信じ、来世への移行を期待してきた。死後の存在を想定して人生を生きる点は、ほとんどの宗教に共通している。
 生命の形態については、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教や神道のような生死は一回きりという単生説と、ヒンドゥー教、仏教のような生死を幾度か繰り返すという多生説がある。後者の場合、人間は人間としてのみ輪廻転生すると考えるか、人間に限らず動物を含む他の生命体にも再生すると考えるかの違いがある。単生説と多生説については、科学によってこれらの説を客観的・実証的に解明するに至っていない。今後、霊の領域の研究が進めば、単生か多生かの決着がつく時が来るだろう。
 唯物論的人間観は、心は脳の生理的な現象であり、人間は死後、物質に分解するのみとする。これに対し、心霊論的人間観では、死は無機物に戻る過程ではなく、霊魂が別の世界に移るための転回点であると考える。身体は自然に返る。しかし、霊魂は、死の時点で身体から離れ、死後の世界に移っていく。人生においては、この死の時に向かっての準備が重要となる。霊魂を認め、来世を想定する心霊論的な人間観に立つと、フロイトの「死の本能(タナトス)」とは違う意味での「死の本能」が想定される。来世への移行本能と言っても良いし、別の次元の生に生きる再生本能と言っても良い。
 世界は、見えるものと見えないもので成り立っている。見えるものとは、五感でとらえられるものであり、見えないものとは五感を超えたものである。死は、後者の見えないものの存在を意識させ、見えない世界、見えるものの領域を超えた次元の存在を予想させる。宗教は、そうした見えるものと見えないもので成り立っている世界の全体へのアプローチの仕方である。人間が死すべきものである限り、以下に科学が発達しても、宗教が消滅することはない。
 身体から独立した霊魂を認めるという考え方は、特異なものではない。近代西洋の唯物論的人間観が有力になるまで、ほとんどの人類は、そのように考えていた。唯物論的人間観の優勢は、物質科学・西洋医学の発展やダーウィンの進化論、マルクス、ニーチェ、フロイトらの思想によるところが大きい。だが、近代西洋にあっても、カント、ショーペンハウアー、シジウィックらの哲学者、ウォーレス、クルックス、ユングらの科学者は、霊的現象に強い関心を示したり、心霊論的信条を明らかにしたりしてきた。20世紀の代表的な知性であるベルグソンは、特にテレパシーの事例に注目した。ベルグソンは「心は体からはみ出ている」として、身体と霊魂の関係を「ハンガーと洋服」の関係にたとえている。テレパシー以外にも臨死体験や体外離脱体験等には、否定しがたい多数の事例があり、それらをもとに、霊魂が身体と相対的に独立し、死後は別の仕方で存在することを主張することができる。
 心霊論的に見た人間の成長と変化は、蚕における「蚕―サナギー成虫」の成長と変化に例えることができる。この世における人間の生活は、蚕の段階に当たる。人間は、この世界に生まれ、成長し、活動を行い、やがて死ぬ。息を引き取った後、しばらくの期間における遺体は、サナギの段階に当たる。そして、蚕がサナギから抜け出て、成虫となって飛び立つように、人間の霊魂は次の段階に移っていく。蚕には、成虫の世界は分からない。これと同様に、現世の人間には、来世の存在は分からない。寿命が尽きたとき、初めて次の段階に入る。蚕の段階にある人間が、来世に関心を寄せても、時が来なければ、真相はわからない。自ら経験できる段階になった時に、初めて経験できるようになる。蚕は蚕として成長・活動していけば、やがて時が来て、サナギになり、成虫になる。人間も現世においては、現世において成長・活動することに専念していけば、やがて時が来て、次の段階に移り、その段階でなければ経験できないことを経験するようになる。
 こうした人間が体験できる死の際における最高の現象が、「大安楽往生」という現象である。

 次回に続く。