ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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ユダヤ21~激動、亡国、そして流浪へ

2017-03-07 09:24:08 | ユダヤ的価値観
「ラビのユダヤ教」の時代
 
 エズラ以後、約1000年の間に、口伝律法は発展・集積された。口伝律法の研究と発展に携わった律法学者は、ラビと尊称された。そこで、この時代に形成されたユダヤ教を「ラビのユダヤ教」と呼ぶ。中世以後、現代に至るユダヤ教は、「ラビのユダヤ教」が確立した教義に基づく。
 「ラビのユダヤ教」の時代は、ユダヤ民族が何度も絶滅の危機にさらされた激動の時代だった。紀元前4世紀末、ギリシャのアレクサンドロス大王の東征によってヘレニズム化の波が、ユダヤ人を襲った。その政治的・文化的衝撃は大きく、ユダヤ人共同体は、存立を根底から揺るがされた。紀元前2世紀中葉、ユダヤ人共同体を征服したセレウコス朝シリアの王アンティオコス4世は、ユダヤ教を禁止して神殿をゼウス神殿と呼ばせるなど、ヘレニズム化政策を強行した。ユダヤ人は信仰を守るために、マカベアスのユダを中心として反乱を起こした。これをマカベア戦争という。ユダヤ人は長い苦闘の末、自治を獲得し、ハスモン王朝によるユダヤ教国家を建設した。
 その後も激動は続いた。地中海地域を支配するようになったローマ帝国が、最大の危機をもたらしたのである。

●ローマの支配と神殿破壊、流浪の民へ

 紀元前63年、ユダヤ人共同体はローマ帝国の属領となり、ローマの属王ヘロデの過酷な支配を受けた。さらにローマ人総督ピラトが悪政の限りを尽くしたため、紀元後66年にユダヤ人は大反乱を起こした。だが、反乱は70年に鎮圧され、ローマ軍によってエルサレムの都市と神殿が破壊された。その結果、ユダヤ人は祖国を喪失し、流浪の民となった。ここに、古代ユダヤ文明は消滅した。その後は、イスラエルの建国によって、現代ユダヤ文明が形成されるまで、ユダヤの文化は、ユダヤ教諸社会において継承・発展されていった。
 ユダヤ人は、バビロン捕囚時代から、神殿での祭儀なしに民族的・宗教的共同体を維持する改革を行ってきた。ユダヤ教の信仰は、儀礼的な要素が後退する一方、倫理的応報思想が確立されていた。エルサレムでの第2神殿時代には、礼拝と律法研究のために、 安息日ごとに各居住地の成員が集まるシナゴーグが発達した。神殿での祭儀が不可能となったことで、シナゴーグでの教典学習が、ユダヤ教の信仰活動の中心となった。
 ユダヤ人はまたこの時代に、ユダヤ教の聖典を定めた。ユダヤ教徒が聖書を確定したのは、紀元90年ごろとされる。
 ユダヤ人は132年に第2反乱を起こしたが、鎮圧されると、共同体の中心地をガリラヤに移した。キリスト教を国教にしたローマ帝国の弾圧によって、5世紀初頭にユダヤ教総主教職が廃止されるまでこの地で活動を続けた。
 口伝律法は口頭で伝承されたが、紀元後200年ころ、ユダヤ教の最高指導者である総主教のイェフダによって、ミシュナに集成された。さらにミシュナの本文に基づく口伝律法の研究が積み重ねられ、4世紀末にエルサレム・タルムードの編纂が完成した。
 
●バビロニアのディアスポラとタルムード
 
 紀元前6C後半、バビロン捕囚が解かれたとき、ペルシャにとどまるユダヤ人もいた。他にもパレスチナ本国以外に住むユダヤ人が増えていった。彼らディアスポラは、紀元後1世紀には、本国の人口の数十倍に達した。その大部分はローマ帝国内に居住したが、ユダヤ人が反乱を起こして厳しい弾圧を受けると、ディアスポラも弾圧を受けた。そのため、ローマ帝国の支配の及ばないバビロニアのディアスポラが、徐々にユダヤ教社会の中心になっていった。
 特に5世紀初頭にローマ帝国によって総主教職が廃止されため、その後は、バビロニア各地の教学院 (イェシバー) で律法学者たちが、「ラビのユダヤ教」を完成させていった。この地でも口伝律法が編纂され、バビロニア・タルムードがつくられた。
 こうして聖書(タナハ)に加えて、ミシュナとタルムードがユダヤ教の聖典となった。タルムードは、その後もさらに約1200年の間、議論が続けられ、ユダヤ人の知恵の集大成となった。

 次回に続く。