ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権358~コスモポリタニズムにはグローバリズムに利用される恐れも

2016-09-28 07:35:50 | 人権
●コスモポリタニズムにはグローバリズムに利用される恐れも

 ロールズ、コミュニタリアン及びリベラル・ナショナリストは、程度の差こそあれ、コスモポリタニズムに危険性を認め、これを批判する。
 コスモポリタニズムに潜む危険性をいち早く警告したのは、タミールの師バーリンだった。バーリンは、著書『反啓蒙主義』で次のように述べている。「所与の共同体に属し、共通の言語、歴史の記憶、習慣、伝統、感情などの解き放ちがたい、また目に見えない絆によってその成員と結ばれていることは、飲食や安全や生殖と同様に、人間が基本的に必要とするものである。ある国民が他の国民の制度を理解し、それに共感できるのは、自らにとってその固有の制度がどんな大きな意味を持っているのかを知っているからに他ならない。コスモポリタニズムは、彼らを最も人間らしく、また彼らを彼らたらしめている所以を捨て去ってしまうのである」と。
 バーリンは、私的領域の不可侵性を守ろうとする消極的自由主義を唱えた。また、ナショナル・アイデンティティのもとになる文化的ナショナリズムを提唱し、排他的・攻撃的なナショナリズムを批判する一方で、コスモポリタニズムを批判した。自らの拠り所であるユダヤ文化を保持・防衛するとともに、西方キリスト教的・近代合理主義的な普遍主義への警戒を表したものだろう。
 コスモポリタニズムは、各国の国民をアトム的な個人へと分解する。その個人に人類の一員としての普遍的な道徳的義務の履行を要求する。そこには、グローバル正義を一元的な価値とし、すべての人がそれに従って行動しなければならないという思想傾向がある。
 イギリスの政治学者シャンタル・ムフは、次のように言う。「等しい権利と義務を持つコスモポリタンな市民からなるコスモポリタン的デモクラシーが可能であると信じること、これらは危険な幻想でしかない。仮にこの企図が実現されたとしても、自らの世界観を惑星の全域に押し付け、また、自らの利益を人類の利益と同一視しながら、あらゆる不同意を『理性的な』リーダーシップに対する不正な挑戦とみなす支配的権力による世界大のヘゲモニー状態を意味するであろう」と。
 コスモポリタニズムは、ネイションを否定するグローバル化・ボーダーレス化をよしとする。その点では、巨大国際金融資本によるグローバリズム(地球統一主義・地球覇権主義)と思想を共有する。グローバリズムは、ネイションの枠組みを解体し、個人単位の思想を徹底し、世界単一市場、世界政府の実現を目指す。その行き着く先は、ごく少数の資本家・権力者と、彼らに管理される大多数のアトム化された諸個人の集合という二極化した社会となる。
 グローバル正義を説くコスモポリタンは、ネイションに基づく国際的な制度を変え、富裕国の政府や多国籍企業の活動を規制しようとするが、逆に巨大な富と権力を持ったグローバリスト(地球統一主義者・地球覇権主義者)に利用される恐れがある。
 コスモポリタニズムの中には、アナキズムに近い国家否定の思想がある。そうした急進的なコスモポリタニズムは、ネイションの役割を全否定することによって、グローバリズムの横行を許す。また、全体主義国家の覇権主義的な行動に対抗できず、武力による統治を招く。国民国家の解体と諸個人のアトム化は、強欲資本主義による世界単一市場と、情報管理技術を用いる強権的な統一政府による世界支配を誘導してしまうことになる。
 ネイションが解体されてしまえば、グローバリストから集団の権利、個人の権利を守るものはなくなる。私は、急進的なコスモポリタンの目指す社会はグローバルな超高度管理社会に転じかねないと考える。また、コスモポリタンとグローバリストの思想に一神教的価値観の戦闘性や、フランス革命における理性崇拝の狂信の残響を聞く。
 コミュニタリアニズムは、近代西欧的な自己像を転換し、共同体の重視を主張することにより、コスモポリタニズムの対抗思想になっている。しかし、関心をローカルまたはエスニックな共同体に集中することにより、世界的な問題に積極的に関与しようとしない傾向がある。
 私は、安易で独善的なコスモポリタニズムに反対し、また偏狭なコミュニタリアニズムに陥ることなく、各ネイションでそれぞれの文化・伝統・習慣に合った形で自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値が実現することによって、世界全体でそれらの価値が実現される道を構想すべきと考える。
 欧米に現れた正義をめぐる諸思想のうち、個人主義的なリベラリズムはグローバリズムに対抗できず、また個人主義的なリベラリズムを徹底するコスモポリタニズムは急進化すると、グローバリズムを助長する恐れがある。また、ローカルまたはエスニックな共同体に関心を集中するコミュニタリアニズムも、グローバリズムに対抗できない。私は、ネイションの役割を再評価し、リベラル・デモクラシーとナショナリズムを総合するリベラル・ナショナリズムのみが、グロバーバリズムへの対抗軸となり得る、と考える。
 巨大国際金融資本が推進するグローバリズムから、自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値を守るには、ネイションの役割を再評価し、諸国家・諸民族が共存共栄する世界を目指す必要がある。ネイションを単位とした集団の権利が確保・拡大されてこそ、個人の権利も確保・拡大される。本稿は、人権について、このような考えのもとに、批判的な検討を行うものである。

 次回に続く。 

■追記
 本項を含む拙稿「人権――その起源と目標」第4部は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i-4.htm