ほそかわ・かずひこの BLOG

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人権351~キムリッカは政治と文化的多様性の問題を論じる

2016-09-12 08:45:40 | 人権
●キムリッカは政治と文化的多様性の問題を論じる

 次に、他のリベラル・ナショナリズムの論者として、キムリッカとタミールについて述べる。
 カナダの政治哲学者ウィル・キムリッカは、リベラル・ナショナリズムの理論家として、多文化主義の問題に取り組んでいる。
 キムリッカは、「人々は『私たちの一人』だと思われる他者に対して犠牲を払う傾向が強い。ゆえに、ナショナル・アイデンティティの感覚を促すことが、リベラルな正義を維持するために必要な相互責務の感覚を強化する」と述べている。そして、正義論の観点から、政治と文化的多様性の問題を論じている。『多文化時代の市民権 ―― マイノリティの権利と自由主義』、『リベラルな多文化主義は輸出され得るか』等の著作で、概ね次のような主張をしている。
 キムリッカは、ネイションを「制度化が充分に行きわたり、一定の領域や伝統的居住地に居住し、独自の言語と文化を共有する、歴史的に形成されてきた共同体」と定義する。そして、ネイションを社会構成的文化(societal culture)の担い手ととらえる。社会構成的文化とは、彼独自の概念であり、「公的及び私的生活における広範な社会制度で使用されている共有の言語を中核とする、領土的に集中した文化」をいう。キムリッカは、社会構成的文化の共有は「薄い(thin)」共同性であり、より広い意味での文化・宗教・生活習慣その他多様な要素の共有まで含む「濃い(thick)」共同性ではないとして、文化的多様性が容認されねばならないとする。このようにしてキムリッカは、ナショナリズムを肯定しつつ、ネイション及びエスニック・グループの間のリベラルな関係を実現するために、リベラリズムとナショナリズムを融合させたリベラル・ナショナリズムを説く。
 彼の定義では、ネイションは文化的共同体であって、必ずしも政治的共同体ではない。それゆえ、一個の国家に複数のネイションが存在する場合があり得る。複数の文化共同体が存在する国家で、多数者の集団は自分たちの言語及びそれを用いた制度によって、国民形成を行う。市民権政策、公用語法令、義務教育、国民の休日の制定、兵役等を通じた国民形成によって、多数者集団は主要なネイションとなる。その際、他のネイションとの間で問題を生じることがあり得る。
 そこでキムリッカは、正義論の観点から、多文化社会における政治のあり方を論じる。キムリッカは、文化は「基本財(primary goods)」であるとみなす。ロールズは、人間は各自異なる善い生き方の構想を持つが、その構想がどのようなものであれ、各自の考える善い生き方をしようとする上で普遍的に必要となるものを、基本財とした。基本財は権利、自由と機会、所得と富、そして自尊心の社会的基礎を含む。キムリッカはこのリストに文化を含むべきだと主張する。
 キムリッカは、文化の要素のうち、言語を重視する。これは重要な視点である。キムリッカによれば、文化の中核的要素として言語があり、言語があって初めて有意味な思考が可能になる。言語なくしては、目的や価値を表現したり理解したりすることは不可能である。また、個人が選択を行うには、具体的な選択肢が必要であるが、文化はそうした選択肢を与え、また選択肢の意味や価値を教える。文化を理解することなくして、有意味な選択はなし得ない。それゆえ、文化を基本財に含むべきだとキムリッカは考える。
 従来のリベラリズムは、個人が自分で目的を選択できる自由を確保するためには、政府は価値に対して中立でなければならないとしてきた。だが、国家には公用語が必要であり、国民は公用語を習得し、また公用語で表現される憲法等の基本的な制度を受容している必要がある。すなわち、国民は社会構成的文化を共有していなくてはならない。それゆえ、文化的には政府が中立であることはありえない。「自由民主主義国家(あるいは公民的ネイション)がエスニック文化的に中立であるという考えは明らかに誤りである」とキムリッカは断言する。
 その点を明確にしたうえでキムリッカは、主要なネイションは、民族的少数者集団(national minorities)の文化を基本財として保障しなければならないと主張する。これは、正義論としては、分配的正義を実現しようとするものと言える。また主要なネイションの行う国民形成は、民族的少数者集団に破壊的な影響を与え得るので、不正義を最小化するために、彼らに一定の権利付与をすべきだ、とキムリッカは主張する。これは矯正的正義を実現しようとするものと言える。
 ただし、キムリッカは、民族的少数者集団と、主として移民からなるエスニック・グループを区別し、自治の権利を持つのは前者のみとし、後者に認められるのは、エスニックな文化権及び特別代表権だとする。また、集団間の公平という点から「対外的保護」のための要求は認められるが、集団内の個人の自由という点から「対内的制約」となる要求は認められないとする。
 少数者集団の中に、さらに極少数派の集団が存在する場合がある。ある少数者集団に特定の権利を与えると、その集団内の極少数派の権利が抑圧される可能性がある。この問題について、キムリッカは、次のように主張する。主要なネイションが全国的な国民形成を行う際には、少数者集団の権利がこれに制約をかける。それと同じように、全国的には少数派だが地方では多数派だという集団が、地方でネイションを形成する際には、極少数派の権利がこれに制約をかける。このようにして、一つの国家において、多数派、少数派、極少数派の間の権利の均衡をとるべきだ、と。
 複数のネイションを持つ国家で、民族的少数者集団や移民の集団等に無制限に権利を認めると、国家は国家として存立できなくなる。すべてのネイションが分離独立してそれぞれの政府を持とうとするのは、経済的軍事的に現実的でない。だが、主要なネイションが他のネイションの文化を破壊し、自らの文化に同化させて単一の文化共同体を作ることは、少数者の自由と権利を抑圧するものとなる。複数ネイション国家が、領土内に存在する複数のネイションの間で、一方的な支配でもなく、とめどない分裂でもなく、国民としての協調を図るには、社会正義の追求が必要である。ナショナリズムを肯定しつつ、ネイション及びエスニック・グループ間のリベラルな関係を実現しようとするキムリッカの問題関心は、多くの国々で現実的な課題となっている。
 なお、私は、キムリッカの主張には、英語文化圏と仏語文化圏が併存するカナダの事情が関わっていると思う。フランス語地域のケベック州では分離独立運動が起こり、1980年と1995年に住民投票が行われた。二度とも否決されたが、1995年には賛否の差が約1%にまで縮まった。現在のところ多数原語の英語文化と少数言語のフランス語文化が協調する形で、国民的な統合がなされているが、分離独立を求める動きは収まっていない。

 次回に続く。