ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

尖閣~6月17日に備えよう2

2011-01-17 06:26:12 | 時事
●なぜ6月17日か

 6月17日とは、昭和46年(1971)6月17日に、沖縄返還協定が調印された日を意味する。その日が現在、一部の中国人にとって、重要な意味を持った日となっている。またそれゆえに、この日に尖閣諸島を占領する計画が立てられたのである。
 尖閣諸島は、もともと日本の領土である。大東亜戦争に敗北したことにより、一時、連合国の管理下に置かれたが、沖縄がアメリカから日本に返還された際、沖縄の一部として日本に返還された。尖閣諸島の領有を目指す中国人は、このことを問題にしている。これは実におかしなことである。
 わが国は、明治28年(1895)1月14日、閣議決定により、尖閣諸島を沖縄県の所轄とした。沖縄県石垣市が「尖閣諸島開拓の日」に定めたのは、この1月14日である。明治政府は、尖閣諸島が清国の領有下にないことを確認した上で、合法的に領有権を確立した。当時わが国は、明治27年(1894)7月から28年3月にかけて、シナの清国と戦っていた。この日清戦争の結果、下関条約が締結され、台湾・澎湖諸島等が日本に割譲された。尖閣の領有は、台湾・澎湖諸島の割譲より、以前のことである。また、当時から尖閣諸島は、台湾・澎湖諸島に含まれていない。
 わが国が尖閣諸島を日本領土に編入して以来、シナの清国を含むいかなる国からも異議申し立てはなかった。ここでシナと言うのは、文化的な地域ないし文明の名称である。シナは易姓革命の歴史を持ち、満州人の王朝である清国は、漢民族によって倒されて、国民党政府による中華民国が建国された。さらに中華民国は共産党によって大陸から放逐され、大陸には中華人民共和国、台湾には中華民国の政府が並立し、ともに正統性を主張する状態となっている。本稿では前者を中国、後者を必要に応じて台湾と略称する。
 わが国では、明治17年(1884)から尖閣諸島で古賀辰四郎氏が漁業などを営んでいた。明治24年に明治政府が尖閣諸島の領土編入を決定した後、29年に同諸島を八重山郡所属とすることが確定した。その直後、古賀氏は内務大臣宛にこれら国有地の借用願を申請した。政府は尖閣列島の開拓を奨励する必要があると考え、同年8月同氏に対して期間30年の無料貸与を許可した。国有地の借用許可をえた古賀氏は、翌年から大規模な資本を投じて尖閣列島の開拓に着手し、漁業等の産業を振興した。明治42年(1909)には248名(99戸)の移民が列島に定住し、開拓事業に従事していたという。
 わが国が尖閣諸島を領有した清国の時代以後も、シナの国々は、尖閣諸島が日本領だということを認めていた。大正9年(1920)、中華民国は、駐長崎領事がシナ漁民救助に対する「感謝状」を、当時の沖縄県石垣村(現、石垣市)村民に贈った。中華民国政府の外交当局は、感謝状の中で尖閣諸島のことを「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記している。尖閣諸島には、戦前はかつお節工場があり、操業していた。当時、シナの政府はこのことについても、まったく問題とせず、何の抗議もしていなかったのである。
 大東亜戦争の敗戦後、尖閣諸島を含む沖縄県は、連合国、実質的には米国の管理下に置かれた。またアメリカ空軍が設定していた防空識別圏は、尖閣諸島上空に設定されていた。昭和27年(1952)4月28日、わが国は占領期間を終え、独立を回復した。しかし、その後も、沖縄県は米国に統治された。わが国は、米国と沖縄返還交渉を続け、昭和47年(1972)5月15日、沖縄県の施政権が米国から日本に返還された。この時、尖閣諸島は、沖縄県の一部として日本に返還された。
 シナでは、戦後、中華人民共和国が建国され、中華民国は台湾に政府を移した。共産党が支配する中華人民共和国は、昭和44年(1966)発行の政府作成の地図で、当時アメリカ管理下の尖閣諸島を「釣魚島」ではなく、「尖閣群島」と日本名で表記していた。尖閣諸島は沖縄返還後、沖縄県石垣市に所属して今日に至っている。

●清国の古文書はシナ領の証拠にならない

 平成22年12月22日の産経新聞の記事によると、同年12月20日、「尖閣諸島(中国名・釣魚島)が中国領土であることを証明する決定的物証」と宣伝された清朝の古文書が、北京市内のオークションにかけられたという。日本人が購入して「決定的物証を隠滅する」のを防ぐために、オークションの主催者は「外国人による入札は禁止」と事前に発表し、話題を集めた。
 この古文書は、清朝の文学者である沈復の散文「海国記」を、同時代の書家、銭泳が抄録したものという。山西省在住の学者がオークションに出品し、1325万元(約1億6600万円)で落札された。
 古文書には、19世紀初め、清の使者が琉球を訪問した際、「途中で釣魚島を見た翌朝、琉球国境に入った」などの内容が書かれていた。わが国が尖閣諸島を日本領に編入したのは、明治28年(1895)であることから、主催するオークション会社、中招国拍は「日本人より早く尖閣諸島を発見した証拠」と主張した。「国家の主権にかかわる文物」として、外国資本の入札を禁止した。
 しかし、中国紙『東方早報』(電子版)などから、「本当に証拠になるか怪しい」「愛国主義で話題づくりをしている」といった批判も上がった。産経新聞が取材した日本の外務省関係者は、「日本は無主地の尖閣諸島を中国より先占したことを主張しており、誰が第一発見者であるかを問題にしていない。この古文書は日本の主張を否定したことにならない」と語っている。これは当然の見解であり、単に発見したというだけでは、領有権を獲得したことにはならない。わが国は、明治28年(1895)1月14日、閣議決定により、尖閣諸島を日本領とした。以後、沖縄県の所轄地域として統治してきた事実がある。

 次回に続く。