10.目指すべき第9条の内容
国家であれば国防は当然整えなければならないものである。国防を完備してはじめて真の平和が得られる。一国として立つ以上は、独力で防備を確立すべきである。外国との条約は、その上で安全保障を強化するためのものでなければならない。また、自分の国を一致協力して守ることは、国民の当然の義務である。
こうした本来の国家と国防のあり方から考えると、現在の自民党や国会の9条論議はまだかなり議論の水準が低い。それは、国民の3割以上が憲法改正に反対し、特に第9条の改正には4割ほどが反対しているという現実があるからだろう。
国防は国を守るためのものであって、他国を侵攻するような軍事力を持つこととは違う。国防とは、川で言えば万が一の災害に備えて築く堤防のようなものである。その備えを怠ったならば、大雨になった時、村も田んぼも皆流されてしまう。
家で言えば、万が一のためにかける鍵のようなものである。「人を疑うのはよくない」といって鍵をかけるのをやめたら、泥棒に狙われる。泥棒に入られてからあわてても、後の祭りである。非武装主義を説く人々は、泥棒が入ったら、「ようこそいらっしゃいました。何でも取っていってください。家も土地もどうぞ、お取り下さい」とでも言うのだろうか。愚かなことである。
国防において最も大切なことは、国民が自ら国を守るという意識を持つことである。
独立主権国家において、国防は国民の当然の義務である。人々は普段の生活において、助け合いや協力を行う。災害が起きた時には、特にそれが必要になる。そして、外国の侵攻は、国民が互いに団結すべき最大の危機である。その危機に対処するために、互いに協力することは、国民としての義務である。
しかし、現行憲法には国防の義務がない。憲法に定められている義務は、納税・勤労・教育の三つである。それらのうち、勤労と教育は権利の側面が大きく、実質的な義務は納税のみである。税金さえ納めていれば、基本的人権を保障されるというのが、戦後の日本である。だが、国民の権利は誰が守るのか。日本人以外は誰も守ってくれない。国民が互いの権利を互いに守る。そこにお互いの義務が生じる。権利と義務の両面のバランスが必要である。
平成29年6月にNHKが「平和に対する意識調査」を行った。「いま日本が他の国から侵略を受けて戦うことになったら、あなたはどうしますか」という質問に対して、18~19歳の回答者では、「自衛隊に参加して戦う」が3.8%、「物資の輸送や負傷者の看護など後方支援活動には参加する」が41.6%、「すべて政府と自衛隊に任せる」が34.2%、「海外に逃げる」が10.2%だった。最後の「海外に逃げる」が1割以上いることが、戦後の日本、そして現状の日本をよく表している。
戦後の日本では、国民の多くが国家として最も重要な国防に関する意識を失ってしまった。自民党案においても、国防の義務を定めていない。そういう議論すら、呼びかけようとしない。それは、反発する国民が少なくないからだろう。だが、独立主権国家では、国民が国民の権利の保障を受ける一方で、国防の義務を負うことは当然である。わが国で国防の義務のないことは、独立主権国家として致命的な欠陥である。国民が一致団結して国を守るという精神を取り戻さないと、他国の侵攻から自分や家族の生命や財産を守ったり、国家の独立と主権を守ることはできない。
また、独立主権国家が独立と主権、国民の生命と財産を守るために軍隊を持つのは当然のことである。日本の国家としてあるべき姿は、今の自衛隊をそのまま維持するのではなく、日本を守るための軍隊を設けることである。その軍隊は、自国を防衛するために必要な戦力を持つとともに、国際的な平和維持活動を担う日本軍となる。また、自衛のために行う戦争や国際平和維持活動において、交戦権を行使するのは、当然である。
私は、目指すべき憲法には、安全保障の章を設け、以下のような要素を盛り込む必要があると考える。
国際平和の希求/侵攻戦争の否定/平和的解決への努力/個別的・集団的を含む自衛権の保有と行使/国民の国防の義務と権利の一時的制限/国軍の保持/国際平和維持のための協力/最高指揮権の所在/軍の活動への国会の承認/軍人の政治への不介入/軍人の権利の制限/軍事裁判所等である。これらを盛り込んだ条文案は、先に記載したとおりである。
次回に続く。
国家であれば国防は当然整えなければならないものである。国防を完備してはじめて真の平和が得られる。一国として立つ以上は、独力で防備を確立すべきである。外国との条約は、その上で安全保障を強化するためのものでなければならない。また、自分の国を一致協力して守ることは、国民の当然の義務である。
こうした本来の国家と国防のあり方から考えると、現在の自民党や国会の9条論議はまだかなり議論の水準が低い。それは、国民の3割以上が憲法改正に反対し、特に第9条の改正には4割ほどが反対しているという現実があるからだろう。
国防は国を守るためのものであって、他国を侵攻するような軍事力を持つこととは違う。国防とは、川で言えば万が一の災害に備えて築く堤防のようなものである。その備えを怠ったならば、大雨になった時、村も田んぼも皆流されてしまう。
家で言えば、万が一のためにかける鍵のようなものである。「人を疑うのはよくない」といって鍵をかけるのをやめたら、泥棒に狙われる。泥棒に入られてからあわてても、後の祭りである。非武装主義を説く人々は、泥棒が入ったら、「ようこそいらっしゃいました。何でも取っていってください。家も土地もどうぞ、お取り下さい」とでも言うのだろうか。愚かなことである。
国防において最も大切なことは、国民が自ら国を守るという意識を持つことである。
独立主権国家において、国防は国民の当然の義務である。人々は普段の生活において、助け合いや協力を行う。災害が起きた時には、特にそれが必要になる。そして、外国の侵攻は、国民が互いに団結すべき最大の危機である。その危機に対処するために、互いに協力することは、国民としての義務である。
しかし、現行憲法には国防の義務がない。憲法に定められている義務は、納税・勤労・教育の三つである。それらのうち、勤労と教育は権利の側面が大きく、実質的な義務は納税のみである。税金さえ納めていれば、基本的人権を保障されるというのが、戦後の日本である。だが、国民の権利は誰が守るのか。日本人以外は誰も守ってくれない。国民が互いの権利を互いに守る。そこにお互いの義務が生じる。権利と義務の両面のバランスが必要である。
平成29年6月にNHKが「平和に対する意識調査」を行った。「いま日本が他の国から侵略を受けて戦うことになったら、あなたはどうしますか」という質問に対して、18~19歳の回答者では、「自衛隊に参加して戦う」が3.8%、「物資の輸送や負傷者の看護など後方支援活動には参加する」が41.6%、「すべて政府と自衛隊に任せる」が34.2%、「海外に逃げる」が10.2%だった。最後の「海外に逃げる」が1割以上いることが、戦後の日本、そして現状の日本をよく表している。
戦後の日本では、国民の多くが国家として最も重要な国防に関する意識を失ってしまった。自民党案においても、国防の義務を定めていない。そういう議論すら、呼びかけようとしない。それは、反発する国民が少なくないからだろう。だが、独立主権国家では、国民が国民の権利の保障を受ける一方で、国防の義務を負うことは当然である。わが国で国防の義務のないことは、独立主権国家として致命的な欠陥である。国民が一致団結して国を守るという精神を取り戻さないと、他国の侵攻から自分や家族の生命や財産を守ったり、国家の独立と主権を守ることはできない。
また、独立主権国家が独立と主権、国民の生命と財産を守るために軍隊を持つのは当然のことである。日本の国家としてあるべき姿は、今の自衛隊をそのまま維持するのではなく、日本を守るための軍隊を設けることである。その軍隊は、自国を防衛するために必要な戦力を持つとともに、国際的な平和維持活動を担う日本軍となる。また、自衛のために行う戦争や国際平和維持活動において、交戦権を行使するのは、当然である。
私は、目指すべき憲法には、安全保障の章を設け、以下のような要素を盛り込む必要があると考える。
国際平和の希求/侵攻戦争の否定/平和的解決への努力/個別的・集団的を含む自衛権の保有と行使/国民の国防の義務と権利の一時的制限/国軍の保持/国際平和維持のための協力/最高指揮権の所在/軍の活動への国会の承認/軍人の政治への不介入/軍人の権利の制限/軍事裁判所等である。これらを盛り込んだ条文案は、先に記載したとおりである。
次回に続く。