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「スポーツマン金太郎」-寺田ヒロオ-

 一年前に電子書籍漫画で藤子不二雄A氏作画の「愛...しりそめし頃に...」全12巻の内、最終巻12巻の途中まで(全編の9割6分)読み上げたので、“トキワ荘”が頭に残り続け、1996年公開の劇場版映画「トキワ荘の青春」を見たいと思っていて、この間、7月半ば頃、配信映画で見たので、「トキワ荘の青春」の主人公、テラさんこと漫画家-寺田ヒロオ先生のことが頭に有り、今度はワシの「Kenの漫画読み日記。」は寺田ヒロオ氏のことを書こう、と思って、寺田ヒロオ氏の作品というと、僕の中では直ぐに「スポーツマン金太郎」が浮かんだので、今回のタイトルは「スポーツマン金太郎」にしました。

 もっとも僕がリアルタイムで一番ちゃんと読んでる、寺田ヒロオ先生の作品は、当時の週刊少年サンデーに連載されてた柔道漫画「暗闇五段」で、「スポーツマン金太郎」が雑誌連載されてた時代、僕は年齢が3歳~7歳で、サンデー連載の「スポーツマン金太郎」の終盤を読んだかどうかで、7、8歳頃に、貸本屋でハードカバーの単行本を1冊くらい借りて来て読んでるかも知れないな、というおぼろげな淡い記憶しかありません。

 でも、僕の中では、寺田ヒロオ氏というと真っ先に頭に浮かんで来るのは「スポーツマン金太郎」なんですよね。

 藤子不二雄A氏描く、漫画の中の寺田ヒロオ氏は、当時のトキワ荘の駆け出しからタマゴまでの若き漫画家たちのリーダー格で、実際にトキワ荘漫画家集団-新漫画党のリーダーだったので、若いのにとてもしっかりした人格者で、頼りになる骨のある兄貴分として描かれていますが、映画の中で俳優·本木雅弘さん演じる寺田ヒロオは、寡黙なキャラで繊細な神経の持ち主で、しっかりしていて一本筋の通った骨はあるものの、優しくて、悩めるキャラでもあり、藤子不二雄A氏の見ていた人物像とは少し違ったキャラでしたね。

 本木雅弘さんが演じたというのもあるのかも知れないけど。リーダーではあっても押し付けがましいキャラではなく、みんなを静かに見守る心優しい人に描かれていた。ただ、内には確固たる信念を持っていてなかなか頑固な人だった。

 映画の中の主人公、寺田ヒロオ氏も、自分の信念である理想と現実とのギャップの大きさに苦悩していた。実際、実人生で寺田ヒロオさんは、自分の理想である、子供たちのための、健康的で良心的で道徳的な漫画作品と、出版業界の商業主義との間で非常に苦悩していた。

 ちなみに僕は、藤子不二雄A氏の自伝的漫画は、電子書籍で「愛...しりそめし頃に...」が初めてで、本編の「まんが道」は連載も単行本も読んだことない。

 「まんが道」の初出連載は1970年代初めの週刊少年チャンピオン、続けて1970年代後半から80年代アタマに週刊少年キング、1980年代後半に、中央公論社から当時刊行された両·藤子不二雄氏の完全版と言ってもいいくらいの、大全集コミックス本、「藤子不二雄ランド」の次々発刊される毎号に巻末連載されてた。

 「愛...しりそめし頃に...」の方は「まんが道」の続編にあたり、ビッグコミックオリジナル増刊に1995年から2013年まで長期に渡って連載されてた。

 日本初の週刊児童漫画雑誌の「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」が創刊されたのが1959年の春で、僕が本格的に少年漫画を読み始めたのが1963年明けてからぐらいの頃。1963年1月は僕はまだ小学校一年生だった。サンデー·マガジンの創刊時は僕はわずか3歳の幼児だ。

 寺田ヒロオ氏の代表作の一つと言える「スポーツマン金太郎」は週刊少年サンデーの創刊号から連載された。

 「スポーツマン金太郎」の連載期間は、1959年春の週刊少年サンデー創刊号から63年サンデー45号までだ。他に小学館の学年誌、各学年に62年から70年まで断続的に掲載された。

 僕が初めて週刊少年サンデーと週刊少年マガジンを読むのが1963年5月初めのゴールデンウィーク頃。この時代にもうゴールデンウィークという呼び方をしていたのかどうかはっきり知らないが。でも、4月29日の天皇誕生日、5月3日の憲法記念日、5月5日の子供の日は既に祭日としてあったから、60年代初めでももうゴールデンウィークという呼び方をしていたのかな(?)。

 そこから断続的に週刊少年サンデーは読んだから、63年のサンデー45号まで連載された「スポーツマン金太郎」も連載末期の頃のはサンデー誌上で読んでいるかな。でも僕自身はサンデー誌上で掲載の「スポーツマン金太郎」を読んだことはもう記憶はしていない。

 子供の頃の僕が大好きだった漫画は、正義の超人や超能力少年やサイボーグや巨人ロボットが活躍する、SF調のヒーロー漫画だ。ほのぼのした少年野球漫画の「スポーツマン金太郎」は小さな子供だった僕の趣味じゃなかったし。

 僕が野球漫画を面白いと読み始めるのは9歳の終わり頃から10歳くらいだろうか。「巨人の星」に熱中するのもまだ10歳時だしな。

 1963年から連載が始まったマガジンの「黒い秘密兵器」なんて面白く読んでたなぁ。魔球漫画だったからだろうなぁ。主人公が忍者の末裔だとか、ヒーローもの大好きな子供心をくすぐる設定だったし。「黒い秘密兵器」のマガジン連載は65年の秋頃まで続いたと思うけどなぁ。

 サンデー連載の「九番打者」~「ミラクルA」とかも面白く読んでたと思う。貝塚ひろし氏の魔球漫画。途中からタイトルが「ミラクルA」に変わって主人公が謎の覆面投手になる。忍者みたいな覆面投手が魔球を投げる。そこがカッコ良くて愛読した。

 「九番打者」~「ミラクルA」のサンデー連載期間は1964年初夏から66年晩春頃ですね。

 小学校三年生くらいになると、僕も野球漫画でも魔球の出て来るものは面白く読んでたみたいだな。

 ただ寺田ヒロオ氏の「スポーツマン金太郎」はよく知ってた。サンデー連載で、というのでなくて、僕の七つ八つ年の離れた兄貴が、兄貴の本棚に1冊、B6判ハードカバーの「スポーツマン金太郎」の単行本を持ってたからだ。この本はサンデーを読み始める前から、ウチにあったから、多分、幼少時の僕がそんなに面白いとも思ってもなく、漫画本として読んでたと思う。

 寺田ヒロオ氏の漫画作品を本格的に愛読するのは、少年サンデー連載の「暗闇五段」からだな。

 寺田ヒロオ氏の50年代の代表作、「背番号0」や「もうれつ先生」は後々から、懐かしの漫画グラフィティーみたいな本など漫画資料になるような本で知った。あの時代にはムック本などという呼び方はしてなかったけど、グラフ誌作りの50年代60年代の懐かしの漫画作品の紹介~解説本ですね。

 テレビドラマ化もされた、寺田ヒロオ氏の代表作の一つでもある、柔道漫画「暗闇五段」は週刊少年サンデー1963年初秋から64年夏場まで約1年間近く連載されましたね。この漫画は僕も面白く読んでたし、テレビドラマもゴールデン枠の30分番組で毎週見てました。

 漫画もドラマも内容はほとんど忘れてます。ただ、主人公の青年柔道家-暗闇五段が物語始めの方で失明して、盲目の柔道家として強敵や悪い奴らと戦って行くお話だったと思います。主人公の暗闇五段を演じてたのは、千葉真一さんだったんですね。全く記憶してませんでした。

 寺田ヒロオ氏の漫画の「暗闇五段」は少年サンデー誌上で連載リアルタイムで読んでるけど、後にコミックスなど単行本で読み返したことはないと思います。

 「暗闇五段」がwikipediaにありました。「暗闇五段」のストーリーは、物語の主人公-倉見という、将来を嘱望された柔道家がライバルの男·熊手の奸計で、谷底に落とされて記憶喪失となり失明してしまう。倉見が身に付いた柔道の技々を頼りに元の自分を探り、柔道の武者修行をして行くお話のようですね。

 漫画版もドラマ版も、柔道の達人の倉見が、盲目という大きなハンデを背負いながらも、悪人たちを投げ飛ばしてやっつける場面がいっぱいあったように、おぼろに記憶してます。

 多分、倉見を殺そうとした犯人·熊手の証拠隠滅などの重ねる犯罪のために、倉見を再度襲撃したり、何かの犯罪トラブルに捲き込まれて、悪人どもと対決することになるんだと思います。

 テレビドラマ版の方は、主人公·倉見が盲目になってしまった理由が、火災の家屋から子供を救助した際に、倒れた燃える柱が両目に直撃したためとなっているようですね。

 漫画版もドラマ版もストーリーの細かい内容はほとんど忘れてしまってます。

 「暗闇五段」の漫画そのものをチラリと見たけれど、昔の漫画そのものですね。昔の漫画とは、昭和30年代の漫画のタッチというか、1950年代後半から60年代アタマくらいの児童漫画のタッチです。まだ、平面的というか舞台的というか、アングルが正面から一定で、映画みたいな、あらゆる角度から見ていない=描いていない、絵柄で、人物のアップはあるけれどアングル的にシンプルです。

 ペンタッチも丸っこい単純な線の絵。昔ながらの“漫画”の絵、ですね。

 勿論、「スポーツマン金太郎」もそういう昔ながらの児童漫画のタッチの絵です。

 「スポーツマン金太郎」は野球漫画ですが、主人公は熊に乗ってて、熊や動物と友達の足柄山の金太郎です。ライバルが桃太郎。最初の舞台は草野球で桃太郎と戦い、後にプロ野球の世界に入る。

 「スポーツマン金太郎」は、僕は週刊少年サンデーを1963年の5月頃から読み始めてるけど、サンデーは毎週毎号読んでた訳でもなく、それでも「スポーツマン金太郎」連載最末期の分を何回かは、多分読んでる筈だと思う。

 「スポーツマン金太郎」はサンデー創刊の1959年春から63年晩夏頃まで、4年何ヵ月か連載が続いたのだから、当時はけっこう子供人気の高い野球漫画ではあったのだろうと思われる。

 当時、毎日通っていた貸本屋にタマに「スポーツマン金太郎」のハードカバーB6判単行本があることもあったと思うから、貸本屋で借りて来て読んだこともあるだろうと思う。

 ウチの兄貴が買ってて持ってた1冊もあったから、僕は幼少時「スポーツマン金太郎」を読んでることは読んでる。ただ60年近く昔のことでストーリーなどはほとんど記憶してない。

 ネットで調べて「スポーツマン金太郎」のストーリーのあらすじは、おとぎ村でライバルどおしの金太郎と桃太郎は、山猿チームと川流れチームを率いて野球の試合を続けるが、いつも引き分けて勝負が着かない。そこで金太郎は巨人軍へ、桃太郎はパリーグのライオンズに入団して、プロ野球で決着を着けることを誓い合う。

 金太郎も桃太郎も超人的野球能力を持ち、名だたる実在のプロ野球選手たちと共に野球界で大活躍する。

 この流れだと、決戦はプロ野球日本シリーズでジャイアンツとライオンズが戦うのでしょうね。

 金太郎だから足柄山かと思ったら、おとぎ村だった。「スポーツマン金太郎」の金太郎くんはいつも熊と一緒にいますね。熊に乗ってたり一緒に歩いてたり。あの熊は野球をやったのかな?やらなかったのかな?まさか熊の方はジャイアンツには入団してないだろうけど。

 あの熊はクロという名前なんですね。マンガショップ完全版の一冊の表紙のオビに、どーも熊のクロがプロ野球·巨人軍に入団するよーなヒトコマが載ってるから、動物の熊であるクロちゃんが人間のプロ野球球団に入って試合するみたいですね。

 「スポーツマン金太郎」には、大相撲もやるエピソードがあったと思うんだけどなぁ。田舎の山で熊ちゃんと相撲は取ってるだろうけど、大相撲の場面もあったように記憶している。

 「スポーツマン金太郎」の復刻版は、出版社のマンガショップさんから2009年頃から「寺田ヒロオ復刻全集」として、寺田ヒロオ先生の漫画作品をほとんど全部網羅して順次発刊して行き続け、その第1弾が「スポーツマン金太郎-完全版」第1章·第2章·第3章の全9巻でした。

 マンガショップさんの「寺田ヒロオ復刻全集」には、「スポーツマン金太郎」「暗闇五段」「背番号0」「もうれつ先生」などの代表作の他にも、「カメラマン金太郎」や「スポーツマン佐助」などなどのあまり名前の知られていない作品の復刻刊も出ています。

 マンガショップからの「寺田ヒロオ復刻全集」には全部で31巻くらいの巻数が出ているのかな。

 あ、マンガショップ版の1冊の表紙から、やがて桃太郎も巨人軍に入るのか。

スポーツマン金太郎〔完全版〕―最終章―【上】 (マンガショップシリーズ 300)

スポーツマン金太郎〔完全版〕 第一章【中】 (マンガショップシリーズ 295)

スポーツマン金太郎〔完全版〕 第一章【下】 (マンガショップシリーズ 296)

暗闇五段〔完全版〕【上】

背番号0〔野球少年版前編〕【上】 (マンガショップシリーズ 318)

背番号0物語 (マンガショップシリーズ 474)

スポーツマン佐助【上】 (マンガショップシリーズ 340)

スポーツマン金太郎―寺田ヒロオ全集10 (マンガショップシリーズ) (マンガショップシリーズ 454)

 寺田ヒロオ先生の作品というと、お話の内容も絵柄も昔ながらの児童漫画ですね。寺田ヒロオ氏の描く作品の対極にあるのが“劇画”でしょう。

 何年か前か、さいとうたかを氏のロングインタビュー記事を読んでいて、あれ、何の本に掲載されてたんだろう?さいとうたかを作品の豪華版単行本の巻中記事だったのかな?勿論、さいとうたかを先生ご存命の頃だった。さいとうたかを氏が市販雑誌で劇画を描き始めていた頃、だから多分、60年代半ばから後半頃かな、さいとうたかを氏の元へ寺田ヒロオ先生から長文の手紙が送り着けて来たらしい。

 その手紙は、貴殿(さいとうたかを氏)は子供に対して非常に悪影響な作品を子供も読む雑誌に描いて掲載されている。子供の教育上非常に良くないことだから、子供も読む雑誌に貴殿は漫画を描くな(載せるな)、というような、まるで告発するような非難文だったらしい。

 さいとうたかを氏は、この告発調の非難的な手紙を無視して、変わらずに自分の描きたい作品を子供も読む雑誌に載せ続けたらしいけど。

 この件はネットのwikipediaにも記載されていて、寺田ヒロオ氏が自分の原稿を“著名な劇画家”に送り着けて「あなたはこんなものを描いていては駄目だ。漫画を描くならばこういう内容の漫画を描きなさい」と文章を添えていたらしい。“著名な劇画家”とはさいとうたかを氏のことでしょう。

 

 勿論、全部1人で描いていた、というか作品を作り上げていた寺田ヒロオ氏は、時代が月刊誌から週刊誌の時代に変わり、漫画を作り上げることに疲れていたところに、60年代半ば頃から少年漫画の内容もリアリティーを求める作風になって行き、それは60年代後半の“劇画”の台頭に繋がり、60年代末からの劇画ブームへと移って行く。寺田ヒロオ氏の描く漫画は内容もタッチも全く時代に合わなくなった。寺田ヒロオ氏は60年代も半ば頃からだんだんと憂鬱になって行く。

 映画の中にも、寺田ヒロオ氏に出版社編集者が時代の移り変わりに合わせて寺田氏の描く作品の内容を変えて行かないか、と提案して、寺田氏が断る場面がある。この逸話は映画を見る前から知っていた。何で知ったのかよく記憶してないのだが、何か藤子不二雄A氏の自伝的作品みたいな漫画で読んだのか、昔、トキワ荘や寺田ヒロオ氏のことを書いた記事で読んで知ってたのか。

 編集者ばかりでなく、漫画家仲間や手塚治虫先生までもが、出版社の注文も聞いて作風を少し変えてみないか、とアドバイスしてたらしいけど。

 寺田ヒロオ氏の思想だと、望月三起也氏の作品とか絶対、大非難だったろうなぁ。

 そういえば確か、藤子不二雄A氏の「愛...しりそめし頃に...」の中に、若い頃のさいとうたかを氏がトキワ荘を訪ねて来る場面があったように思うんだが。とすれば、寺田ヒロオ氏とさいとうたかを氏は顔を合わせたことくらいはあったのかな?解らないけど。さいとうたかを氏もまだ貸本漫画中心で仕事してた頃だろうけど。

 トキワ荘というと、先ず浮かんで来るメンバーは、寺田ヒロオ氏の他に両·藤子不二雄氏、石森章太郎氏、赤塚不二夫氏、後にアニメーターとして開花した鈴木伸一氏、結局売れなかった森安なおや氏、通い組のつのだじろう氏が有名ですが、手塚治虫先生と同時期にトキワ荘に住んでいたのは寺田ヒロオ氏だけですね。

 少女漫画家の草分け、水野英子氏は、映画の中で描かれているのは、石森章太郎氏と赤塚不二夫氏との三人での合作のときだけ短期間、トキワ荘で寝泊まりしてたように描かれていますが、実際、トキワ荘に在住したのは1958年内の7ヶ月間だけみたいですね。

 子供のための健康的で良心的で道徳的な漫画を描く、という自分の強い信念を持って漫画制作業に臨み、決してそのポリシーを譲らなかった寺田ヒロオ氏は本当に根が頑固な人だったようですね。

 結局、60年代後半からは小学館の学年誌にしか描いてなかったんじゃないかなぁ。何しろ、出版社の少年雑誌の編集者にまで、劇画を子供の読む雑誌に載せるな、と忠告してたらしいし。

 寺田ヒロオ氏が、筆を折る、というのか漫画業から完全撤退、漫画家廃業したのは1973年らしいですね。サンデーの「暗闇五段」を64年夏場に連載を終了してからは週刊誌には描いていなくて、その後は月刊誌にしか原稿を描いてないらしい。特に小学館の学年誌ですね。64年夏場は僕は8歳で小三か。

 寺田ヒロオ先生が亡くなられたのは1992年9月、61歳だった。早かったですね。手塚治虫先生が89年に亡くなられたとき、寺田氏のところへも連絡が行ったが葬儀には姿を見せなかったらしい。

 映画では、トキワ荘のみんなで草野球の対抗試合をやってる場面はそんなにありませんが、藤子A氏の「愛...しりそめし」の漫画の中では、けっこうページを割いてトキワ荘のいつものメンバーで草野球に興じ、中でも寺田ヒロオ氏が大活躍してる場面が豊富に描かれてますね。

 高校生時代は野球部でならし、電電公社·電報電話局のサラリーマン時代は社会人野球で投手を勤め都市対抗野球大会にも出場したスポーツマンだったほどで、藤子A氏の漫画の中では、映画で描かれる寺田氏のイメージとは違い、いかにもスポーツマン上がりの快活な青年に描かれている。

 “トキワ荘”に関しては、NHK制作でNHK1981年放送の「わが青春のトキワ荘-現代漫画家立志伝」という番組を、あれ、何年頃だろう?「NHKアーカイブズ」という番組ワクの中で再放送してるの見てるし、“トキワ荘”に関してはいろんなテレビ番組で扱って来てますね。

 “トキワ荘”を描いた漫画作品も藤子不二雄A氏作品の他にもあるし、藤子A氏他、実際にトキワ荘を体験してる漫画家が自伝的エッセイで書いて上梓した本もけっこういっぱい出ましたね。

 僕も、テレビ番組や漫画や本や雑誌の記事のかじり読みで、映画を見るまでもなく、“トキワ荘”のいろんな話はおおよそのことは知ってたのでしょうね。

 映画のタイトルが「トキワ荘の青春」だけど、藤子不二雄A氏の自伝的漫画を読んでも映画を見ても、寺田ヒロオ氏を初め、漫画を描くことに一生懸命で日々奮闘し、ときに気を抜いて仲間たちと遊び、みんなで集まって金がないながらもキャベツ炒めを肴に安い焼酎をサイダーで割って飲んで、ワイワイ話してオダを上げ、励まし合って、切磋琢磨もして過ごした若者たちの生活は、“青春”そのものでしたね。

 トキワ荘から羽ばたいて出て、レジェンドと呼ばれるまでの漫画の大家になった者も何人もいるけど、例えば筆を折った寺田ヒロオ氏も、結局、漫画家として売れることのなかった森安なおや氏も、短期間だけトキワ荘にいた水野英子氏も、つのだじろう氏ら通い組も、長谷邦夫氏やつげ義春氏などトキワ荘によく訪れた若き青き時代の漫画家たちも、みんなみんな輝ける“青春”だったんだなぁ、と思う。貧乏でもがいていたけれど、希望と情熱とエネルギーだけはいっぱい持ってた、プロの漫画家として成立することを目指して頑張って生きてた、若者たちの日々。トキワ荘のたくさんの青春。

 赤塚不二夫みたいに、全く売れなくて、親友·石森章太郎の手伝いの仕事ばかりして、何度も漫画家になることを諦めようと思い、やがて作風をストーリー漫画からギャグ漫画に方向転換したら芽が出て、その内爆発的に売れてレジェンドにまでなった人生もある。

 映画の中でも、赤塚不二夫氏や森安なおや氏が、家賃の支払いができなくて生活費がなくて、寺田ヒロオ氏に助けて貰うくだりがシーンとして描かれている。トキワ荘-頼りになる兄貴分の寺田氏に、漫画家を続けて行くことの人生相談を請う場面もある。

 映画の中に、赤塚不二夫が、俳優のきたろう扮する出版社編集者に「才能がないからもう漫画家は諦めた方がいいのではないか」と言われる場面があるけど、本当にそんな残酷なことを言い放ったりしたんだろうか?映画ではその後、同じ編集者から赤塚氏がギャグ漫画で人気を得たことで、称賛されるシーンもあるけれど。

 この赤塚不二夫氏の逸話は、石森章太郎氏が介在して秋田書店の「まんが王」にギャグ漫画「ナマちゃん」を載せることで、漫画家としての生命線が繋がり、赤塚不二夫がプロの漫画家として成功する第一歩として有名な話で、僕も昔から知ってた。昔、何かの記事で読んだんだろうな。

 でも、やっぱ、“時代”ってあるから、寺田ヒロオ氏の作風と絵柄では、少々作風を変えたくらいでは1970年からの劇画全盛時代からは、プロの漫画家としてはなかなか生き残って行けなかったんじゃないかなぁ。あの絵柄をもうちょっとタッチを変えて行けば、何とか小学館の学年誌くらいなら仕事があったかなぁ。1970年以降の少年漫画のタッチは、ギャグ漫画でもそれまでの60年代の絵柄と大幅に変わったからなぁ。70年代後半に入ると「ガキでか」「マカロニほうれん荘」大ヒットの時代だし。

 何でも手塚治虫先生も寺田ヒロオ氏が漫画家廃業するときには、やめずに続けるように話したということらしいし。

 手塚治虫先生も60年代後半~末頃から70年代前半頃は、作風で苦しんでたようですね。その後、「ブラックジャック」や「三つ目がとおる」で復活するんだけど。60年代後半は劇画の台頭で少年漫画全体が大きく変わった時代でしたね。

 60年代に入って、少年漫画誌の読者たちが収録掲載されてる漫画作品に刺激を求め始めて、60年代後半に入ると、もっと強い刺激を、もっともっと強い刺激を、ってなって行ったのかな。

 

 寺田ヒロオ先生編著の書籍「『漫画少年』史」がAmazonで出ていた。勿論、中古品で値段が何と3万8千200円と着いていた。発行元は湘南出版社となっている。1981年の刊行。他の古書販売店で探せばネットでも実店舗でも、もっと安く出てるところもあるだろう。

 「少年漫画誌の原点。幻の雑誌の全容を公開」「全巻作品の目録・代表作品復刻」と書の表紙にありますね。「『漫画少年』史」は寺田ヒロオ先生が編纂して解説した、漫画関係では最後の仕事になりますね。寺田ヒロオ先生、調度50歳くらいの頃になるな。

 「漫画少年」は、手塚治虫先生最初期の「火の鳥」や「ジャングル大帝」が連載され、トキワ荘出身のレジェンド漫画家など、その後昭和期のプロ漫画家となった、日本漫画の礎を築いた漫画作家たちが、修行時代に習作を投稿した、伝説の戦後少年漫画雑誌ですね。

 寺田ヒロオ先生も、この「漫画少年」に多数、作品が掲載されました。「白黒物語」という連載作品もあります。

 1948年1月号(1947年12月発行)が「漫画少年」の創刊号です。1948年1月号から49年3月号まで、井上一雄氏著作の「バットくん」という野球漫画が連載されました。

 藤子不二雄A氏によると、寺田ヒロオ氏は、トキワ荘出身の主だった漫画家たちのように手塚治虫先生の影響を受けて漫画家を目指した訳ではなく、この「バットくん」の井上一雄先生の影響から漫画家になろうと思って、新潟から上京して来たのだそうです。

 寺田ヒロオ氏の漫画の画風は、手塚治虫先生の描き方とはまた違ってますものね。初期の貝塚ひろし氏の画風も寺田ヒロオ氏的な描き方をしていると思う。初期の貝塚ひろし氏は、どちらかというと「イガグリくん」の福井英一氏の画風に似ている。

 戦前から漫画を描いている井上一雄氏の、戦後の「バットくん」の画風は、まだ「のろくろ」シリーズや「冒険ダン吉」的な描き方ですね。「サザエさん」とかにも通じるかな。

 月刊誌「漫画少年」を発行していた学童社が倒産し、「漫画少年」が廃刊になったのが1955年9月です。僕はまだ生まれてません。映画「トキワ荘の青春」の中に、学童社が倒産してトキワ荘在住の漫画家のタマゴの面々がショックを受けてるシーンが描かれてます。

 学童社の終末期には寄稿作家への原稿料の遅延や未払いがあったみたいだから、当時の貧乏漫画家はそれこそ食うや食わずみたいな暮らしで漫画原稿を描いてた漫画家のタマゴも多かったろうから、そういう貧乏漫画家の面は水木しげる先生の自伝やドラマや映画の「ゲゲゲの女房」でも描かれてるし、原稿料ということでもショックだったろうが、何よりも漫画家を志した青き修行時代に習作を投稿した、漫画雑誌がなくなってしまうことが大きなショックだったんでしょうね。

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