岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

我が里の「新日本紀行」

2021-02-19 15:52:14 | いなか暮し

 日曜朝、少し早起きして 6:45からBSPの新日本紀行(再)を見る、富田勲の音楽が懐かしい、番組後半、放送から約半世紀後の現在の様子も見せてくれる。

 我が里が、もし「新日本紀行」で放送されていたら・・・・・
 およそ半世紀、50年ほど前・・・雪解けとともに若い人たちを中心に出稼ぎ(多くは造り酒屋)から半年ぶりに大きな土産を持って帰ってくる。
 数年前に若い人たちが原動力になって行った農業構造改善事業で田んぼは大きく区画され、大型の設備、農機が配置された。
 外国製の大型トラクターを運転するのは出稼ぎから帰ったばかりの若い衆、当時、田植え機の普及は始まったばかりで、そのころまでは昔通りの「結、ゆい」(共同作業)、たくさんの人達が一緒になってにぎやかな田植えが行われた。
 丑年の夏、出羽三山参りが行われる。地区内のほぼ20代の人たち2、30人が集まり、およそ3泊4日、出羽三山参りまでは親から小遣いをもらって良いと言われ、親からの餞別で湯の浜、上の山温泉辺りで男になって帰った人も多いと聞く。
 秋の声を聞いて鎮守の秋祭りは、子供が多く集落ごとの神輿を競い、夜には青年会主催の演芸会、酔いもあって大きな歓声が上がり、沢山の、志(お花)は青年会の良い収入にもなった。
 そして収穫の秋、農構事業で導入した外国製の大型コンバインは弱い地盤に時折立ち往生、ほとんどがそのころ普及したバインダーで稲刈りし、昔通りの「はせがけ」で乾燥、調整は各自作業小屋で行われて、事業で設置されたカントリーエレベーターは閑古鳥。
 取り入れ済ませた若い衆は再び出稼ぎに出かける。
 出稼ぎ先は刺激の多い町場が多く内心楽しみもあるが、出かける方はいいとして留守を守る新婚のお嫁さんは涙で送る。

 それから50年、当時夢にも思わなかった高速道や新幹線が地区内を通り、駅までもでき、北上川には新たに橋が架かり空港やインターまで10分と交通の要衝にと変わった。
  田んぼの景色は変わらないが、お米の造り手は法人なり生産組合が中心となり、トラクターを運転するオペレーターの顔ぶれは50年前と変わらず、70代中心、収穫されたお米の乾燥調製は今ではほとんどカントリーで処理される。
 農業の跡を継ぐべき若い人の多くがサラリーマンとなり、祭りの神輿を担ぐ子供が極端に減った。
                   少し寂しい・・我が里の新日本紀行

コメント
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