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世に倦む日日 ?@yoniumuhibi ? 11 時間11 時間前
しばき隊はカルトだ。しばき隊のアカウントをフォローしてはいけない。しばき隊のTwをRTしてはいけない。しばき隊をネットで増殖させてはいけない。しばき隊に入信すると、人は暴力の依存症になる。LKのような凶徒に変わる。しばき隊は封じ込めないといけない。カルトを阻止しなくてはいけない。
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いくら低学歴の拙者でも、「カルト」というカタカナ語の意味は、それとなくわかる。だが、分かると言っても、よく考えてみれば、別に辞書を引いたわけでもなく、世間に蔓延している、空気なようなものを読み取った上で、さらに脳内に、鮮やかに刷り込みされている概念を元として、分かった風な顔をしているだけなのかも知れない。上のつぶやきに、見られるように、世に倦むつぁんは、次から次へとカタカナ語による臭い「屁」を後股間から、やたらにひりだして恥をしらない。まず、拙者のような田舎育ちには、「アカウント」というカタカナの意味内容が、そらぞらしい。それに「フォロー」も、なにやら曰くありげで、腐れた玉ねぎの臭いが充満してくる。「しばき隊のTwをRTしてはいけない」と狂乱ぶくみに叫んでいるが、「Tw」も「RT」も低学歴の拙者には、もはや雲をつかむような隠語として、脳内および脳の頭上はるかを、意味もなく流れすぎていく。それに、「LK」とは、なんだ。誰かの頭文字のようだが、定かには知ることもなし。
カルトを否定することに文句をつけても始まるまい。世に倦むつぁんのおっしゃる通りだ。じゃが、ここまでカタカナ語ばかりを好む習性があるとは、それこそ反日思想に頭がやられた「しばき隊」の亜種と、みられても文句は言えまい。
いいかい、世に倦むつぁん。日本に哲学というものがあるなら、それは徹底して日本語でやるという言語行為における、おのおの方の態度の中にある。それは論者の出自、学歴、趣味傾向、肉体改造および徒党、選挙、金融なんぞは、これぽっちも関係ない。
自分は、いったいなにをしにこの世に生まれて来たことやら。
哲学の最初の事件が、この難問がおのおの方の内心に生まれてしまうことにある。ここから不毛な哲学という近代の悪行に身も心も浸らせなければならないのだ。哲学というなら、この根源的な問いに言語をもって答えることにある。少なくても答えようと行為する、そのことにある。株の売買も行為には違いない。セックスはもちろん朝のジョギングも行為のうちだ。
たまたま頭の中に、なんぞ感想が浮かんだという程度では行為とは言えない。その感想なりを論理的道徳的に明文化して、はじめて行為といえる表現となる。さらにいえば、その明文がカタカナ語満載であっては「はやりすたり」の風潮に逃げ込む算段を最初から、こいているばかりであり、この手の郎党三昧、おちゃらけぽんぽんの言辞が、いかに哲学と呼べる資格があるやなしや。
論点は悪くないが、もともと日本にない概念を果して日本語化出来るかというのに尽きる。
日本の支配下に置かれた韓国は、今なお日本語で言い表している。
日本語化出来ない言葉は、無理に日本語にすることも無いが、日本語に翻訳する作業もまた価値はあるね。
で、言葉は、共通概念とならないことがあって、よく議論では意味の異なる概念が同じ言葉で表現されたり、言葉の意味の広さを無視して視野狭窄の狭い事柄を言葉で言い表すから論理的議論とならない。
すかすこれはもうもともと言葉が持つ欠陥であるとは思う。
すると哲学というか論理的思考というか思索は議論の空間とは馴染まない単独で存在する貴重な宝石であるかと思う。
この宝石を手にすることが出来るかどうかの哲学作業は、はなから喧騒な罵声罵倒とは縁がなくて、一人静かに佇み湧き上がる泉であって、畢竟知恵の泉はわたすたちがそれを見つけたところで騒ぎはしゃぐことでもなく、黙って見てるだけでええんじゃなかろうか。
騒ぎはしゃぐほどの泉をいまは特に誰も発見していないなぁ。
こんだけネットが発達して、いのいちばんの情報がネットにスクープされるようになったらカネがなんぼでやってるプロは厳しいかも。
なんてたってタダでやってるネットが強い。
株で儲けてるわたすは複雑な気分ではあるが、記者がもらえてるカネは下がるかも。
だからデフレになると大変だと騒がなきゃいけないマスコミが経済に弱いのは不思議でもなんでもない。
もっとも経済は結果がすべてかなかな。
結果が出せない無能マスコミは能無しが暴露されて辛いかもかも。
倫理道徳価値観って昔は文士とかが唱えられてたけど、もう、誰も文人にはなにも求めなくなったかやかや。
誰もが哲学を理解してるかどうかは疑わしいわさ。
知を愛するというのが、なんで哲人となる学問、哲学になっちまうのか。
哲人という言葉はもう死語だろ。
資本主義の経典『国富論』は、哲学者アダム・スミスの著作だ。
哲学者が書いてるから凡人ぼんくら経済通の書いた本とちょっと違う。
存在論というか、富とは何か?という問いを発して経済を考察した。
哲学者だから、スミスは、共感シンパシーについても考察してる。
いまは、こっちの本『道徳感情論』が注目されている。
存在論への考察が大事なんだよね。
ま、シンパシーを与える大和言葉に翻訳されるのがいいのかも知れんが。
もともと日本になかった概念なんだもんな難しいだろ。