恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

幽霊と枯れ尾花

2018年11月10日 | 日記


 10月31日、今年も恐山は無事閉山の日を迎えました。ご参拝いただいた皆様、誠にありがとうございました。お疲れさまでございました。

 写真は当山御用達のカメラマンによる秋景色4点。左から、恐山街道、宇曽利山湖、山門と地蔵山、高台からの賽の河原(写真の真ん中付近に賽の河原地蔵堂)です。

 さて、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということわざがあります。恐怖心や疑いがあると、何でもないものまで恐ろしく見える、あるいは、恐ろしいと思っていたものも、正体がわかれば何でもないものだということのたとえです。

 この場合、その場にいる人には、「幽霊」とも「枯れ尾花」とも見当がつかない、いわば認識が宙吊りになる瞬間があるでしょう(「不安」という感情の領域)。それは何事かが起こっていることは意識できても、「〇〇が存在する」という認識が持てない(=言語化ができない)時間であり、存在の手前の事態です。

 この時間、あるいは事態をいかなる方法でも名指ししてはいけません。「ブラフマン」とか「タオ」とか「絶対無」とか「純粋経験」とか。それらが「ある」といってはいけないのです。

 同時に、たとえ何であれ、「ある」と言うためには、「〇〇」を必ず名指ししなければなりません。

 いや、「言葉で言えないもの」「何がなんだかわからないもの」も「ある」のだと言うなら、それは「?がある」ということに留まるのであり、それ以上でも以下でもなく、「ある」という述語にかかわる言表として無意味です(それ以外何も言えない)。

 したがって、存在手前の事態や時間を恣意的に名詞化して、次のような文脈に挿し込んではいけません(Aの位置)。

「まことに万有を生むものとしてのA自然の本性は、それら万有のうちの何ものでもないわけである。(中略)それ自体だけで唯一の形相をなすものなのである。否、むしろ無相である。(中略)否、むしろ厳密な言葉づかいをするなら、『かのもの』とも、『そのもの』とも言ってはならないことになる」

 上の文書は新プラトン主義者のプロティノスが自身の絶対理念「一者」について述べたものです。「A」には「ブラフマン」「タオ」「絶対無」「純粋経験」のいづれも代入可能でしょう。

 仏教はこの名指しと語りを禁欲するのです。そして誰かが名指しして語り出したら、それを批判し解体するのです。

 道元禅師の言う「非思量」とは、幽霊でも枯れ尾花でもない、存在の手前を露わにする行為と言えるでしょう。「ある」も「ない」も無効となり、ここにおいて「無記」を実践的に担保するわけです。

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158 コメント

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Unknown (Unknown)
2018-11-10 01:21:38
恐山は夏らしからぬ夏、短い夏から、あっという間の雪景色というイメージでしたが、紅葉も綺麗なのですね。来年はまた違う季節に訪れてみたいと思います。
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 (桂蓮)
2018-11-10 01:53:35
『仏教はこの名指しと語りを禁欲するのです』
本文中のこの部分で、私の今までの疑問が
謎解けました。

仏教説教への私の苛立ち、
訳わからないけど有ってはならないなにか、
正しく言われているが、間違った方法、
だが、その根拠が言えない悶々さなど

それらの明確な答えになりました。
否、明瞭な解になりました。

そおだったのですね。
ー仏教はA群への名指しと語りを禁欲するのですーでしたね。

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「本物」は自分で考える人 (榮久)
2018-11-10 01:57:00
テキストなしでも、自力でどこまでも考えを推進していける人。
哲学書などは参考意見にすぎない。
普通に生きている人の中にもかならずいるはず。
要は在野とかアカデミズム、肩書とか職業、
学派とか叙述のスタイルなどとは関係ない。

哲学がわかると何がわかるのか。
この問いがわかる人にこそ哲学はわかるので、
哲学がわかれば何かがわかると思っている人には
哲学は決してわからないと思うし、それでいいと思う。
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Unknown (ZIP)
2018-11-10 02:09:26
たづね入る みやまのおくの さとぞもと 我住みなれし みやこなりける
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記事と関係あると思うのですが・・ (Unknown)
2018-11-10 02:16:21
オイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」がこの辺の事情をよく描いていると思いますね。
www.asyura2.com/09/cult7/msg/607.html
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解、しかし (桂蓮)
2018-11-10 02:30:29
皮肉的にも
謎が『解』できて
頭はすっきり、目から鱗落ちですが、
脱力感があります。

この脱力感は何なのか。

この解
『上記の解 (桂蓮)2018-11-10 01:53:35私のコメント』が分からず、
何十年も違和感を持ったまま
権威のある人達の説教を黙々と
聞いてきたが、
その教えが部分的に
腑に落ちなく、
何かが過剰、
或いは何かが欠如している感覚、

だが、なぜ?この感覚があるのか?と
自分に問うても
私にその根拠を出せるほどの能力が無い。
人に聞いたとしても
学説的に理論で答えくるだろうから
もう諦めてた底抜けた挫折感....

長い間、この解けない疑問と
独り黙々戦いながら
自問自答しながら
諦めては、再起して
その繰り返しだった。

理論を理論で解く、
この矛盾に直面しても
それに頼らず、
自分の最善は尽くしたが
常に限界に直面せざるを得ない...

そんな長年の私との闘いに
院代のこの解で
今までの精神的な圧迫感が
解放され
息苦しさからも解放されたと言うのに

脱力感が襲ってくる。
これはなぜか。
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Unknown (Unknown)
2018-11-10 03:47:40
オイゲル・ヘリゲル「弓と禅」
阿修羅さんのリンク題は
「東洋ではどんな分野の達人でも超能力者」

そこで語られている事は

自分を手放す
自分が自分がを止め
自分の思考に頼る事を止め
自己主張を止め
自我に没頭する事を止め
正直に生きる事が正義だと思う事を止め、

精神分析者ユングが言うように、
己の心の中にうごめいている魔物(シャドウー)を退治しなければ、
人は満たされる事は無い。
常に脱力感に襲われる。
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追加 (Unknown)
2018-11-10 03:57:50
己の心の中を蝕んでいる魔物(シャドー)を修行によって退治する。
そして真我にめざめる。
そのあとならば
「ありのままの自分」に正直に生きる事が美しく輝く。脱力感などみじんもない。
先んずべきは「まず修行」、10年、20年、いや30年・・・
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花言葉は「繊細な美」 (フヨウ)
2018-11-10 04:24:47
写真と添付をありがとうございます。
恐山にも紅葉の季節があるのですね。
赤付いた色合いは、秋を感じさせてくれますね。

今年は酷暑の後、急激に寒さが訪れたせいか、体調が崩れやすいようです。いえ、老化?
いずれにしましても、気をつけてまいりましょう。
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Unknown (Unknown)
2018-11-10 04:32:11
幽霊は見たことありませんが、
何より「人間」が怖いです。

なかなか
恐ろしい生き物ですよね。
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