「君が講演や法話をすると、聴いていた人から『大学は落研(落語研究会)だったんですか?』と言われるそうだな」
「そうなの。何度言われたかわからん。先輩に回転しない寿司屋さんに連れて行ってもらった時、カウンター越しに我々の話を聞いていた店主に、『えっ、そちらさんお坊さん?! 噺家かと思った』と言われたこともある」
「確かに、あの話しぶりと所作からすれば、そう思われたって無理はないな」
「うん。で、本と全然印象が違う、って言われる。本に書いてあることは難しいし」
「だから、本から察すると、気難しくて怖い人、のように思うわけだろ」
「そのとおり。まさに書き手の未熟なんだけどね。申し訳ない」
「どうして、あんな書き方しかできないの? 小難しく書くのが好きなの?」
「とんでもない。ただ、僕がものを書く時には、まずは自分の考えをなるべく明確に書くことに意識が集中してしまう」
「つまり、読み手に配慮するより、考えをまず言語化することに気持ちが向くわけか」
「それで、非常によくない癖なんだが、とりあえず考えが言語化できて、自分自身を説得できてしまうと、それ以上説明する元気がなくなって来るんだよ」
「だめだろ、それは! 本、買ってもらうのに」
「そう、全面的に僕が悪いんです。でも、さらに説明を足して『わかりやすく』しようと加筆すると、今度は自分の考えが曇るような感じがして、ほとんどの場合、元にもどっちゃう」
「だめだろ、それも! プロなのに」
「あの、僕、プロの物書きではないんだけど・・・」
「でも、不親切きわまりない」
「反論の余地も無い。すまん」
「じゃ、講演や法話は、どうしてそうならないんだ」
「ぼく、子供のころから、読みたくない本を読んだり、聞きたくない話を聞くのが、ものすごく苦痛なの。だから、今まで、他人の講演を聞きに行ったことがない。途中で出るのは失礼だし」
「それで?」
「だから、自分の話を聞いた人が辟易したり退屈にならないように、講演や法話のように、一方的に大勢の人に話をする時には、自分が心底そう思ったことで、自分が本当に面白いと思ったことしか言えないんだ」
「すると、ある程度説得力が出て来ると」
「そうなるといいな、と期待してるだけ」
「でも、そこそこウケたりするんだろ」
「そういうところがある。でも、問題なのは、そうすると、話が限られてくる。『心底そう思う』『面白い』話など、そうそうあるものではない」
「それは持ちネタが少ないということか?」
「と言うか、必ずしも数の問題ではなく、話の内容をいくつかのパターンに落とし込んで、数種類の『話術』にしてしまう傾向があるんだな」
「それがイヤだと」
「そういうやり方もあるし、必要だとも思うんだが、やっているうちに何かリアルでない感じがしてきて、テンションが下がるんだな」
「ほう。初めて聞いたな」
「そもそもね、僕は大勢の人に一方的に話をするのが、得意ではないの」
「そんなこと、誰も信じないぞ」
「わかってる。でも、本当だよ。僕の場合、確かにそれなりのテクニックはあるんだろうが、意識的に気分を盛り上げないと、話に勢いがつかないし、最後まで気力が持たないの」
「つまり、本人としては、かなり無理していると」
「そういう感じ」
「じゃ、無理してない話とは?」
「これははっきりしてる、対話。ぼくは、おそらく演説型ではなく、対話型。対話している時、一番思考と言葉が自由になる」
「具体的に言うと?」
「相手の思考と言葉にインスパイアされて、自分の思考と言葉が予期しない流れに展開したりする。その流れに、とても自由な感じ、快感があるんだ」
「言いたいように言えるということでもない?」
「そう。自分の思い通りに話せるということではなくて、思考と言葉そのものが自己展開するみたいな感じが、好きなんだな」
「じゃ、対談本が好きなのか?」
「いや、ちょっと違う。対談はよいが、本にするのは別の手続き」
「面倒な奴だな」
「と言うよりも、自分の言葉が面倒なの」
「君も言葉も、もうどうしようもないな」
「そうなの。何度言われたかわからん。先輩に回転しない寿司屋さんに連れて行ってもらった時、カウンター越しに我々の話を聞いていた店主に、『えっ、そちらさんお坊さん?! 噺家かと思った』と言われたこともある」
「確かに、あの話しぶりと所作からすれば、そう思われたって無理はないな」
「うん。で、本と全然印象が違う、って言われる。本に書いてあることは難しいし」
「だから、本から察すると、気難しくて怖い人、のように思うわけだろ」
「そのとおり。まさに書き手の未熟なんだけどね。申し訳ない」
「どうして、あんな書き方しかできないの? 小難しく書くのが好きなの?」
「とんでもない。ただ、僕がものを書く時には、まずは自分の考えをなるべく明確に書くことに意識が集中してしまう」
「つまり、読み手に配慮するより、考えをまず言語化することに気持ちが向くわけか」
「それで、非常によくない癖なんだが、とりあえず考えが言語化できて、自分自身を説得できてしまうと、それ以上説明する元気がなくなって来るんだよ」
「だめだろ、それは! 本、買ってもらうのに」
「そう、全面的に僕が悪いんです。でも、さらに説明を足して『わかりやすく』しようと加筆すると、今度は自分の考えが曇るような感じがして、ほとんどの場合、元にもどっちゃう」
「だめだろ、それも! プロなのに」
「あの、僕、プロの物書きではないんだけど・・・」
「でも、不親切きわまりない」
「反論の余地も無い。すまん」
「じゃ、講演や法話は、どうしてそうならないんだ」
「ぼく、子供のころから、読みたくない本を読んだり、聞きたくない話を聞くのが、ものすごく苦痛なの。だから、今まで、他人の講演を聞きに行ったことがない。途中で出るのは失礼だし」
「それで?」
「だから、自分の話を聞いた人が辟易したり退屈にならないように、講演や法話のように、一方的に大勢の人に話をする時には、自分が心底そう思ったことで、自分が本当に面白いと思ったことしか言えないんだ」
「すると、ある程度説得力が出て来ると」
「そうなるといいな、と期待してるだけ」
「でも、そこそこウケたりするんだろ」
「そういうところがある。でも、問題なのは、そうすると、話が限られてくる。『心底そう思う』『面白い』話など、そうそうあるものではない」
「それは持ちネタが少ないということか?」
「と言うか、必ずしも数の問題ではなく、話の内容をいくつかのパターンに落とし込んで、数種類の『話術』にしてしまう傾向があるんだな」
「それがイヤだと」
「そういうやり方もあるし、必要だとも思うんだが、やっているうちに何かリアルでない感じがしてきて、テンションが下がるんだな」
「ほう。初めて聞いたな」
「そもそもね、僕は大勢の人に一方的に話をするのが、得意ではないの」
「そんなこと、誰も信じないぞ」
「わかってる。でも、本当だよ。僕の場合、確かにそれなりのテクニックはあるんだろうが、意識的に気分を盛り上げないと、話に勢いがつかないし、最後まで気力が持たないの」
「つまり、本人としては、かなり無理していると」
「そういう感じ」
「じゃ、無理してない話とは?」
「これははっきりしてる、対話。ぼくは、おそらく演説型ではなく、対話型。対話している時、一番思考と言葉が自由になる」
「具体的に言うと?」
「相手の思考と言葉にインスパイアされて、自分の思考と言葉が予期しない流れに展開したりする。その流れに、とても自由な感じ、快感があるんだ」
「言いたいように言えるということでもない?」
「そう。自分の思い通りに話せるということではなくて、思考と言葉そのものが自己展開するみたいな感じが、好きなんだな」
「じゃ、対談本が好きなのか?」
「いや、ちょっと違う。対談はよいが、本にするのは別の手続き」
「面倒な奴だな」
「と言うよりも、自分の言葉が面倒なの」
「君も言葉も、もうどうしようもないな」