仏教用語で時々持ち出される言葉に「煩悩即菩提」「生死即涅槃」というのがあります。仏教に多少興味のある人で、はじめてこの語を見たり聞いたりすれば、我々の心の迷いや欲望と仏の悟りがイコールだとか、人間の生き死にの現実が、そのまま仏教の究極の境地とされる涅槃と同じだとする理屈は、何のことだかわからないでしょう。
これらは普通、次のような解説をされます。大乗仏教の「空」の教えによれば、すべての存在にはそのものとしての実体はない(無我)のだから、それは煩悩も菩提も同じくことで、共に空で無我という意味で等しい。つまり、両方とも「空の現れ」として同じである、というわけです。
もう一つの理屈には、煩悩が有ればこそ、悟りも有るし、悟りがあるから煩悩も煩悩として自覚できる。お互い不即不離の関係だ、というようなパターンのものもあります。
この二つのアイデアは、根本的なところで「空」の考え方を誤解しています。初めの理屈は、異なる二つの現象の無条件的同一性の根拠として「空」を設定し、その現れとして「煩悩」「菩提」を考える時点で、本質/現象の二元的観念論と同然です。つまり、「空」がそれ自体概念化された結果、形而上学的な「実体」の意味で、解釈の文脈に取り込まれてしまうのです。
言葉の意味は文脈が規定します。文脈において同じ機能のものは、意味的に同一です。だとすれば、上述の意味で解された「空」は、結果的にプラトンの「イデア」やウパニシャッド哲学の「ブラフマン」と同じ振る舞いを文脈の中でするでしょう。それはつまり、「空」が「イデア」や「ブラフマン」になる、ということです。
二番目の理屈も同じことです。これは「煩悩」概念も「菩提」概念もまともに検討せず、二つの概念を適当に組み合わせてパズル遊びをしているようなもので、理論的にも実践的にも、ほとんど役に立ちません。
「即」の字解釈の要点は、このような「空」の概念化や、無批判な概念使用の拒否にあります。
「煩悩即菩提」と言ったとき、それが「空」によって根拠づけられるのは、「煩悩」にも「菩提」にも実体や本質がない以上、ある方法にによって、つまり修行によって、「煩悩」は「菩提」に転換しうると考えるからです。すなわち、「煩悩即菩提」は修行によって転換を成し遂げた者だけが、結果的に言える言葉なのです。修行前や修行未熟の人間が己れの煩悩の言い訳に利用する話ではありません。
このとき重要なのは、「空」はそれ自体に内容を持つ言葉ではない、ということです。「空」を「真理」だとか「真如」だとかいう概念と結び付けて、そこに意味や内容を与えてはいけません。なぜなら、「空」は言われるような意味や内容の無根拠性しか指示しないからです。
けだし、「空」は言語批判の様式でしか言及できません。あえて言語化するなら、「〇〇は??である」という通常の言表は、そう言おうとしている事態を、常に捉えそこない、誤解させる・・・・そういう意味としてしか「空」には言及できないのです。
ということは、修行者としては、「煩悩」や「菩提」と称されている存在様態が、まずどのように現象するのか、そしてそれは、いかなる条件でどのように成立するのかを、言語化の手前の視点(たとえば坐禅における「非思量」)を確保して認識し、条件の変更によって実際に「煩悩」を「菩提」に転換させてみて、初めてこれが「煩悩即菩提」の意味だと言えるでしょう。私はそう思います。
色即是空・・・無常
空即是色・・・縁起
としても、宜しいのでしょうか・・・?
(何度も読み返し、少し長く考えさせていただきます)
色不異空
空不異色
とも、整合している、と私は思います。
(もう少し長く考えさせていただきます)
今までも仕事上、壁にぶつかった時など、座禅を組みフラットな状態を確保し、新たな発想が下りてくることを待つ、というスタイルで随分救われています。今回のお話を読ませていただき、また少し、良い形に現実に向かうことが出来るように思います。感謝します。
今回の記事を読み、時間の経過や認識、そして意識の言語化等を意識するだけでも、神経を研ぎ澄まし大変そうだという、個人的な印象しか持ち合わせず、出家された方の修行とは程遠い生活を送っていると思いますが、勉強させて頂きます。
また「空」は「あるのでもなく、ないのでもない」状態?をそう名付けただけであって、「空」そのものがあるわけではありません。「煩悩」や「菩提」にしても、ヴィトゲンシュタインのいう語りうるものではなく、示しうるものとして、認識しようということなんでしょうか?
くだらないことを書き込ませて頂きましたが、諸事情で、当分(最低4~5年)はネット環境と遮断されることになりました。師匠が厳しい方ですし、そういうものです。南さんの書き込みを楽しんできましたが、ありがとうございました。
たとえば、京都で仏像を作り続ける若き女性を20年前に知りましたが、お会いしたくなりましたね。 羽生善治さんもそうですが、そのような方々に共通することは、言いたいことを言うのではなく言うべきことを話す態度の謙虚なことですね。
そう言いながらもついつい我が出てしまうこの私のもどかしさと一生涯付き合うと思えば、至らぬこその付き合いがいもありましょうかね。 この調子で生きていくのでしょうね、 私は ・・・ 関係ないね、すみません。
「空」と言うのは存在の成立原理などではなく、仏教徒が生涯取り続けるべき行為態度なのですね。南さんが仏教は生きるテクニックだと常々おっしゃってる通りですね。
だとすると、原理化した「空」は言語批判としての「空」による解体の対象に他なりませんね。言語による言語の解体。まさに中観帰謬論証派そのもの。
少なくとも人にとっての「ありのまま」とは物象化の作用で実体視された世界そのものであり、それを解体し(=空)組み直し続ける行為態度(=煩悩即菩提)が仏教徒であるかどうかを決定付けると・・・
原理化し実体視される「仏教的真理」なるものに対するまるでキリスト教のような「信仰」は本来なら仏教の極北にあるものなのかもしれません。
仮に仏教に「信仰」があるとしたら、私はお釈迦様の涅槃を信じるということなのではないかと私は最近考えています。私の涅槃とは死ぬときに後悔しないという程度のことですけど。釈迦のようにあらゆる命題が信じられなくても、その不信を生涯にわたり意図的に徹底して貫くことができれば、生を安らかに終えられると・・・
今を真摯受け止め、今を生きる事に没頭する方法しかない私にとっては分からない。
毎日座禅をし、長谷寺の月曜座禅会、青松寺の月例座禅会、最乗寺の座禅会に参禅し、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」とは程遠い世界を歩んでいます
禅宗は言語を解体し無効にすることが道元禅師やその他の祖師の言われている事なのではなかったのでしょうか?
南老師が言われる解体した後に、本来の世界があるとは道元禅師は言われてませんよね。
私の不勉強な所かもしれません。あれば教えていただけませんでしょうか?