私の近著のカバー絵を提供して下さったのは、木下晋画伯です。画伯の絵を初めて見たときの衝撃は、今も忘れません。
雑誌での連載が始まる前、
「今度の連載の挿絵に、これを使いたいんです」
そう言って編集者が差し出した画集の表紙は、驚くべきリアリズムで描かれた合掌の鉛筆画でした。後日実物も見ましたが、絵は巨大なもので、しかもその細部にわたる描写は瞠目すべき、圧倒的な迫力でした。
画集に掲載されている絵は、さらに衝撃的でした。どうみても80歳以上に見えるご母堂のヌード、容貌がすっかり変わってしまったハンセン病の治癒者(画伯は自身でモデルを依頼したのだそうです)、ホームレスの老人、などなど。
どれもこれも、文字通り眼が釘付けになるような強度と密度を備えた表現です。
私が何よりも印象深く思ったのは、モデルの皮膚への異様なこだわりでした。老いと病と疲労とを暴き出すような皮膚の精密な描きぶりは、画家の見ることへの欲望、その深淵を見る思いでした。
ただしばらく画集を見ていたとき、ふと気がついたのは、皮膚に向けるのと同じような鋭利な視線が、モデルの眼の描写にも感じられることでした。
皮膚を見る画家の容赦ない視線は、すでに大きな、時には極限的なダメージを負いながら、それでもなおそこに存在する人間を剥き出しにしています。
しかし、同時に、その視線はモデルの眼によって折り返されます。見る者は見られる。自分を暴き出す視線を全身に浴びながら、彼らの視線も見る画家を暴き出す。画家はさらに、その視線さえも見ている。
両者の視線は無限に交錯し、この「見る」「見られる」の只中に、それぞれの「存在」は開かれていきます。
けだし、画伯の絵は、彼の見る欲望で描かれているのではなく、「存在すること」への敬虔が、画伯に描かせているのです。
雑誌での連載が始まる前、
「今度の連載の挿絵に、これを使いたいんです」
そう言って編集者が差し出した画集の表紙は、驚くべきリアリズムで描かれた合掌の鉛筆画でした。後日実物も見ましたが、絵は巨大なもので、しかもその細部にわたる描写は瞠目すべき、圧倒的な迫力でした。
画集に掲載されている絵は、さらに衝撃的でした。どうみても80歳以上に見えるご母堂のヌード、容貌がすっかり変わってしまったハンセン病の治癒者(画伯は自身でモデルを依頼したのだそうです)、ホームレスの老人、などなど。
どれもこれも、文字通り眼が釘付けになるような強度と密度を備えた表現です。
私が何よりも印象深く思ったのは、モデルの皮膚への異様なこだわりでした。老いと病と疲労とを暴き出すような皮膚の精密な描きぶりは、画家の見ることへの欲望、その深淵を見る思いでした。
ただしばらく画集を見ていたとき、ふと気がついたのは、皮膚に向けるのと同じような鋭利な視線が、モデルの眼の描写にも感じられることでした。
皮膚を見る画家の容赦ない視線は、すでに大きな、時には極限的なダメージを負いながら、それでもなおそこに存在する人間を剥き出しにしています。
しかし、同時に、その視線はモデルの眼によって折り返されます。見る者は見られる。自分を暴き出す視線を全身に浴びながら、彼らの視線も見る画家を暴き出す。画家はさらに、その視線さえも見ている。
両者の視線は無限に交錯し、この「見る」「見られる」の只中に、それぞれの「存在」は開かれていきます。
けだし、画伯の絵は、彼の見る欲望で描かれているのではなく、「存在すること」への敬虔が、画伯に描かせているのです。
「傲りは消え失せてしまった」が
目に浮かぶような表現力を感じました。
綺麗な手でなくてよかった。それなら、とっくに忘れているところでした。
今度、劣化された南さんの坐禅姿を、描いてもらいたいですね。
誰に見られる
他者と自己が交錯する
人称が失われる?
>自他の区別が無くなるということは、人称が失われた世界ということです。
人称が失われるということは、
する【能動】、される【受動】という事態とは別のことです。
小林秀雄賞の前回受賞者である、国分功一郎さんがそのことを書いているのです。
何がどう別なのか?
意味がよくわかりませんでした。
宜しければ、どなたか説明して下さい。
生身にうまく所有できない人には、表現の難解の向こうに、
思念自体の持つ難解とでも言うべきものがある。
それは、彼の全実存に借り宿り、
生涯にわたって彼を深く途方にくれさせる。
自分の人生を他人のそれのように生きているか、
「考える」ということを自力で実行していないか、
人は種々な真実を発見する事は出来るが
発見した事実をすべて所有する事は出来ない、
或る人の大脳皮質には種々の事実が観念として棲息するであろうが、
彼の全身を血球と共に廻る真実は唯一つあるのみだ
したがってそれは彼の宿命の異名である。
うまく悩めないものを、
無理に悩む必要もなかろうと私は思う、
そうしなくても十分健康に生きていけるのであれば。
実存への執着の事なんでしょうか?
存在に対する神秘性に共感する?
存在の根拠であり、価値であり、意味である?
世界の生起を、あるがままに
世界の滅を、あるがままに・・
正しい智慧を持って見よ。
(相応部経典因縁篇12.15)
さすれば
「生存への敬虔」を知るだろう・・
これって超越系??