恥ずかしながら、新著「老師と少年」が、一週間ほど前に出ました。すでにお読みいただいた方、ありがとうございした。ご感想をお聞かせいただければ、幸甚です。
こんなことを言うのも、今回はいささか勝手が違うからなのです。私はこれまで、仏教に関する数冊の著書やいくつかの論文、エッセーなどを公にしているのですが、それらはみな、明確に書こうと思ったテーマがあり、相応の考えがありました。したがって、著書の出来については、ある程度見通しがつき、面白いと言う人もいれば、何だこれはと言う人もいるだろうと、割と鷹揚に構えていたのです。もっといえば、刊行されてしまえば、後のことは気にならなかったのです。
ところが、この本は、そういうわけにいきませんでした。まず、これを仏教書とストレートには言いがたい。書店によっては文芸書コーナーにあると教えてくれる人もいましたが、そもそも「文学」になりえているのか、皆目わからない。
となれば、誰かに読んでもらって、その感想を聞く以外、意味ある出版だったのかさえ、見当がつきません。ある人は「歴史に残る」と褒めてくれました。ある人は「原石だね。あとどう磨くのかね」と言ってくれました。それぞれ、ありがたかったです。ただ、さらに毀誉褒貶、色々な感想を聞かせていただければ、自分自身で、これを書いた意味をもっと納得しやすいだろうと思うわけです。どうぞよろしく。
実は、私は、数年前から、いつの日か、あと20年くらいしたら、こういうものを書きたいと、漠然と思ってはいたのです。それを、いま書いてしまうことになったのは、新潮社の金寿煥さんという豪腕の編集者のおかげです。これはこれで、縁というもので、案外、この本は今でなければ書けなかったものなのでしょう。実際、彼の激励がなかったら、途中で書き続けるのを放棄したかもしれません。ある程度考えをまとめてから書くという作業に慣れていた私には、その場その場で言葉を手探りするような今回の書き方は、本当につらいものがありました。
ついでに、ハプニングを一つ。3日ほど前、東京から新幹線に乗りました。しばらくして、偶然、隣に座っている30歳くらいの女性が広げている週刊誌が目に入りました。するとそこには、なんと、私の大きな顔写真が載った本の広告が!私は、あわてて持っていた新聞を必要以上に大きく開き、そのまま仙台で彼女が降りるまで、ほとんど身動きもせず、息を殺していました。
偶然とはいえ、まさか、彼女も広告の人物がいま隣に座っているとは思わなかったでしょう。あのとき、「それ、僕です」と言ったらどうなったか。どうせロクなことにはならなかったでしょうけれど、ちょっと楽しい想像です。
「老師と少年」読みました。文学書にしたらこのような型式はわたしが読んだなかでは初めてだったような気がします。
感想は、老師が書かれた老師の「ダンマパダ」だと思いました。一文一文が身体に染みていきました。特に、P42の母をさがして迷子になったときの件は実際子供のころ、わたしが百貨店で体験したことと同じようなことが書かれてあり、ドキッとしました。もう40年以上の過去のことですが、よくおぼえております。人間とは欠けるもの、ただ欠けるものという部分につながるのですが、まだここまではよくわかりません。わたしの場合は、母とはぐれたとき、誰でもそうであるように繋がっていたものがきれた思いがあり、衆目のなかで泣きじゃくっていました。
今週もう一度読んでみようと思っております。
ありがとうございました。
りょうさんのblogから寄り道しながら辿りつきました。
カトリックで洗礼を授かり四半世紀あまりの信者ですが、実家が曹洞宗の檀家であることと、親しいイタリア人宣教師が駒大の鏡島師に学び、山田老師の指導を戴いたこともあって禅への造詣が深くご縁がありました。
今日お訪ねしたのは私のblogにブックマークさせていただきたいお願いと、新幹線車内でのエピソードに大爆笑したことをお知らせしたかったものですから。
修行を積まれたお坊さまでも息を殺し身を硬くなさったんだと思うと、お気の毒ながら人間味に溢れほっといたしました。
私が憧れるイエスも、とても人間臭く熱くおおらかで、お茶目な人物だったのではないかと勝手に想像しているのです。
「忘れてよいこと」老僧のお言葉に痛み入りました。ありがとうございました。
またおじゃまいたします。
ブックマークのお申し越しの方、わざわざおことわり下さり、恐縮です。よろしくお願いします。
本日は私のblogへご訪問くださり、
コメントを頂戴しありがとうございました。
早速ブックマークに加えさせていただきました。
今後共よろしくお願いいたします。
恐山は雪に覆われる季節を迎え、
春まで静かな時の中にあるのでしょうね。
本州の東端ですが、一度訪問したいと思います。
院代さまにあってはご自愛くださいますように。
...四十路も半ば越えると堪えますね(苦笑)。
本、購入しました。
楽しみに拝読しようと思います。
老師の周辺には昔からいつも楽しいことがありますね♪
光景が目に浮かんで、思わず笑ってしまいました。昔から老師の飾らない真っ直ぐなお人柄が好きでした。
正体を明かしますと、安居中はtetsugyuと呼ばれておりました。使えない和尚でしたが・・・、その節は大変お世話になりました。いま鎌倉の寺で頑張っております。
国際部時代は老師と親しく接することができて私にとっては掛け替えのない思い出です。
益々のご活躍を祈念申し上げます。
時節柄どうぞ法身ご自愛くださいませ。
「老師と少年」、読ませていただきました。
以下は、私のHPとmixiの日記に書かせていただいたご紹介です。
長くなりましてすみませんが、そのまま貼らせていただきます。
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久しぶりに、ガツンとキックのある禅の本を読みました。
著者である南直哉(じきさい)さんは、曹洞宗の僧侶で、現在はあの恐山の院代を勤めておられます。
で、実は、私のマイミクさんというよりはむしろ旧友のライオン丸さんの師でもあるのですが、私と同年代の方。
この本からも、非常に面白い方なのだろうなということが窺えますね。
形式は、いわゆる「禅問答」を噛み砕いたような、九夜にわたる、少年と師との対話です。
まるで芝居の台本のようにとてもサクサクと読めてしまうのですが、けれどもその内容の深さたるや・・・。
きっと私は、これから何度もこの本を読み返すことでしょう。
ヘッセの「シッダールタ」などのように。
ネタバレになってしまうかもしれませんが、とりわけ強く印象に残ったフレーズを、いくつかご紹介させていただきます。
・理由もなく生を選ぶ。それだけがこの世の善を生み、善を支える。
・「本当」を問うな。今ここにあるものが、どのようにあるのか、どのようにあるべきなのかを問え。
・私にわかるのは、君の心ではない。君の苦しさなのだ。
・生きていくことの苦しさと、生きていることの苦しみは違うのだ。
・理解したいと思うことが、傲慢で罰せられるような罪だと断言することのほうが、そのときの私には、もっと傲慢に思えたのだ。
・理解できないことが許せないとき、人は信じる。信じていることを忘れたとき、人は理解する。
・聖者も隠者も欲望の影にすぎない。
・「私」は他者からやって来る。
・生きる意味より死なない工夫だ。
これらの言葉のいずれかについて興味を持たれた方は、ぜひご一読を。
また、貴ブログもいつも楽しく拝見させていただいております。
あの当時の夜参は、まさに「老師と少年」の対話!?だったのかもしれませんね(笑)
本当に感謝しております。
恐山の方にも、いつか拝登をさせて頂ければと思っております。
今後のご活躍を切に祈念申し上げますm(__)m
はじめまして。昨年6月の茂木先生との対談がきっかけで院代さまのことを知りました。音声ファイルを携帯プレイヤーにダウンロードして繰り返し拝聴しております。「行いのありようが人のありようを決める」というお言葉が強く胸に残っております。「老師と少年」も拝読いたしました。また、内田先生との対談も、とても興味深く読ませていただきました。よく分かりませんが、仏教はとても科学的なのではないかという印象を強くしました。
今日、偶然このブログを見つけ、すこし意外な気がしたのと同時に、大変うれしく思いました。お話やご著書とはまたすこしちがった語り口が新鮮でした。
これからも楽しみにしております。また、もしよろしければ当方のブログも一度ご笑覧いただければ幸いと存じます。
恐山のこと そうなんだということばかりでした。
惹きつけられる法話なさる院代さまでした。
mixiよりここにたどり着き 本を知りました。
本読ませていただいてます。
このブログ たのしみにしております。
また ぜひ 宿坊に泊まり 法話 お聞きしたいです。
「人は永遠に自分のことを善く生きていると受け入れたい欲求を持って」生きている。そして受け入れられたという証を手にできないので苦しんでいる、という前提を読みました。それが根源的な欲求なのかと想像しました。そして「承認」が稀薄になっている現状を思いました。が、その場から離脱せよ、という言葉に凄さと悟りを思いました。